【第2回】福島第一原発20km圏内の5年間と、私たちの生活
読みもの|3.12 Sun

  2012年1月時点の原発から20キロ圏内には、今すでに見ることができなくなってしまったものがあります。それらは例えば富岡駅の駅舎、内陸まで津波に運ばれてきた船、さまよう牛たち、原発の標語アーチ。
 そこでは、劇的に変わっていくものと、そのままそこに在り続けるものが共存します。前回との対比で、時の流れをより感じることができるかもしれません。
 確認しておきたいのは、福島でつくられていた原発のエネルギーを使っていたのはすべて、首都圏の生活者だったということ。そして、世界に「FUKUSHIMA」の名を知らしめた未曾有の事故は、現在進行形で、今もそこにあるということです。

 

 

津波は富岡駅周辺まできて、駅舎と、周囲の建物の1階をくり抜いた。その後駅の反対側にはまずフレコンバッグが積まれ、減容化施設ができた

 

 

 

 

2015年4月訪問時、夜ノ森の桜が満開の様子。本来シーズンは、県内外からの人々で溢れていた。ここはちょうど、帰還困難区域との境目でもある

 

 

 

浪江町の請戸。漁港の町。今はもう船や車、瓦礫はほぼきれいに集められていて、だだっ広い平野を、トラックが砂塵を巻き上げながら走っている

 

 

 

 

 

彼らがその後どうなったかは、知らない

 

 

 

 

 

 

病院前には、事故直後の大慌てだった形跡。原発の標語アーチは2つあり、その前後それぞれに別の標語が、計4つあった。今はすべて撤去された

 

 

(取材:平井有太)
2017.3.11 sat.
SHARE: LINE Facebook
URL
URLをコピーしました