リー・ペリーさんから日本へのメッセージ| ENECT プラチナム連載 Vol.9
読みもの|5.17 Tue

 

レゲエとボブ・マーリー、そしてリー・ペリーについて

 ある種の熱気を帯びたまま駆け抜けた、リー“スクラッチ”ペリー三部作、「スタジオ焼失と再生のエネルギー」。
 最後に、素敵なお声と、音楽に関して世代もジャンルも越境する深い見識でファンの多いピーター・バラカンさんに、レゲエとボブ・マーリー、そしてリー・ペリーについて伺いました。
 また来週には、「レゲエの在り方」と「電力の自由化」にあるかもしれない共通項についても、聞いています。お楽しみに。


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―リー・ペリーさんは、今回の動画だけ見るととにかく変なおっちゃんかもしれませんが、そういう方がレゲエという音楽の核心にいる現実があります。
バラカン 確かに。彼がいなければ、「ルーツ・レゲエ」というものが果たしてどうなっていたか?という人物でもあります。
 だいたい「天才」は、みんな「変なおっちゃん」なんです。あ、でも最初は「変なアニキ」か(笑)。

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―ボブ・マーリーも頼っていった、変なアニキ。
バラカン つくったレコードの権利が、ボブ・マーリーの知らないところであちこちに安く売られてしまって、「なんだこいつは」とケンカしたみたいですけど(笑)。ボブは後に、「人間は好きだけど、ビジネスの仕方は問題がある」と発言しています。
 それは、プロデューサーによくありがちなことですが、特にジャマイカの音楽業界は無茶苦茶ですから。今でもたぶんそうだと思いますが、当時は著作権の概念はゼロ。例えば平気で他人の曲のタイトルを変えて出しちゃって、しかも「じゃあ、ミュージシャンはお金をもらっているのか」と言ったら、レコード会社も印税をまともに払ってないでしょうし、儲かってるのはプロデューサーだけでしょう。他に有名なプロデューサーというとコクソン・ドットとかデューク・リード、レスリー・コングとか、いっぱいいました。
 初めて当時のジャマイカの様子をフィルムにおさめた、「ハーダー・ゼイ・カム」(1972)という映画がありますが、基本的には、あの世界ですからね。
―そんな社会から生まれたものが、ここ日本にも飛び火して、とても大きなレゲエのシーンがあります。
バラカン 今、ルーツ・レゲエと言えば、日本が一番じゃないですか?ジャマイカでも、歳をとって今も現役でやっている人、どのぐらいいるんでしょうか?
 今はほとんど「ダンスホール(レゲエ)」って、まだそう呼ぶのかな?コンピューターでつくったリズムが主流で、「コンシャス」って言われているスタイルはあるんですけど、それもネオ・ルーツと言いますか、やっぱり70年代のルーツ・レゲエとは違う。
 リズム感はもちろん時代と共に変わるものだから、固執するのはおかしいかもしれませんが、ルーツ・レゲエに関しては今日本は一番の場所じゃないでしょうか。
 DRY & HEAVYや、ベースの松永さんが亡くなってしまいましたがMUTE BEATとか、あとはレゲレーション・インデペンダンスというグループも、本格的なダブ・バンドみたいな感じです。
―ジャマイカと日本の社会の在り方は丸っきり違えど、音楽はここまで共有できている。共通項はどこかにあるんでしょうか?
バラカン でもそこは、「遅まきながら」ですよね。だって当時の日本で、そんなにルーツ・レゲエが盛り上がっていたわけでもないですから。70年代に来日してるミュージシャンは、ボブ・マーリーが79年。それ以外に来た人は、パイオニアーズが一度と、他にはジミー・クリフと。要するに、ルーツ・レゲエのシーンがその時からあったわけではない。
―それがどうして今の大きなシーンに繋がっていく?
バラカン それも一般社会で受けているわけではなくて、サーファーだとかの人たちが中心にいたり、湘南あたりのちょっと緩い、生活のテンポが東京より一テンポ遅い人生観、世界観というか。あんまりセカセカせず、人生を楽しむようなライフスタイルの人たちの間で特に楽しまれてるんじゃないでしょうか。僕はあまり、社会的なところまでは理解していないかもしれないけれど。
―「レベル(=抵抗)・ミュージック」という括りの中で、ボブ・マーリーの「Punky Reggae Party」という曲が象徴する、パンクとレゲエの連帯もあります。
バラカン パンクの連中は、自分たちも弱者。それでレゲエの歌詞なんかにも、いわゆる弱者的な「サファラ」という言葉が出てきます。
 そういう言葉の共通点を彼らは感じていて、加えて60年代の後半、レゲエになる前のロックステディの時代、労働者階級の若者であるスキンヘッズが当時のジャマイカ音楽が大好きで、それを得意気に聴いていたんです。
 でも逆に、彼らが好きだったから、そのスキンヘッズに何かというと攻撃される、僕みたいなちょっとヒッピーぽい若者は、ジャマイカの音楽をちょっと敬遠していました。「あれはスキンヘッズの聴く音楽だからノータッチ」って。
 その後、むしろボブ・マーリーのおかげで「あ、ジャマイカの音楽ってすごいんだ」という、シンプルな再発見がありました。
―スカは?
バラカン スカはジャマイカが独立した、1962~66年くらいの間の音楽で、当時はほとんど知られていませんでした。イギリスではミリーという、当時たぶん中学生の女の子の、「マイ・ボイ・ロリポップ」という超大ヒット曲があるんですが、それ以外のジャマイカの音楽はほとんど誰も知らなかった。それはもちろん、カリブの移民以外には。
―カリブ海にたくさんある島国の一つで生まれた音楽が、どうして日本はもちろん、ここまで世界中で愛されているんでしょうか?
バラカン それは、イギリスの植民地だったことがものすごく大きい。つまり、英語圏であったこと。ジャマイカの音楽が世界に広がったのは、イギリスを経由しているからです。
 一番大きいのは、アイランド・レコードといって、その社長はクリス・ブラックウェルという、ジャマイカ育ちでイギリスの大金持ちの食品会社の息子です。

―それこそリー・ペリーさんが、「吸血鬼」と呼んだ、、?
バラカン でも彼がいなければ、「レゲエは世界的に流行っていない」と断言してもいいと思う。
 まず、彼が1959年にジャマイカでアイランド・レコードという会社をつくる。その3年後、62年にイギリスでのアイランド・レコードを立ち上げました。その頃は、カリブからイギリスに移民として来ている人たちが、自分たちの音楽を聴きたいけれどレコードが出ていない状況にビジネスチャンスを見出して、カリブの移民のために出して、彼らにだけ売っていたんです。
 それで、ミリーという女の子が歌った「マイ・ボイ・ロリポップ」が大当たりして、彼女のプロモーションをしている時にバーミンガムというイギリス第2の都市で、たまたま同じ建物でライブをしていたスペンサー・デイヴィス・グループを発見するわけです。
 ここに、当時まだ10代でしたが、すごく黒いフィーリングで歌うスティーヴ・ウィンウッドがいて、「これはすごい」ということで、マネジャーになってレコードをつくるんです。その時のレーベルは「フォンタナ」で、アイランドはあくまでカリブの人たちのためでした。
 そうこうしてスティーヴ・ウィンウッドは「トラフィック」という新しいグループをつくる。そしてブラックウェルはジャマイカの音楽だけでは商売に限界があるので、ロックもやり出して、アイランドは67年からロックの会社として再出発して、大成功します。
 同時にジャマイカのレコードも出し続けているわけですが、この頃ジョニー・ナッシュとスウェーデンに行って、お金に困っているボブ・マーリーがロンドンに転がり込んできて、「金を貸してくれないか」と打診をしてきた。そこで彼に4000ポンドを渡して、「ジャマイカでアルバムを一枚つくってこい」と伝え、それでつくってきたのが、「CATCH A FIRE」(1973)というアルバムでした。
―大名盤とされている1枚ですね。
バラカン でも、ジャマイカでつくったもののままではイギリスでは誰もわからないから、そこにリード・ギターやキーボードのオーヴァーダビングを入れて、あれは今では確かに大名盤の一枚ですが、当時は売れなかったんです。まだそんなに、誰もレゲエのことはわかっていなかったから。
 当時僕はたまたまレコード店で働いていました。一緒に働いている一人がジャマイカ系イギリス人の若者で、僕は彼に聴かせてもらって、吹っ飛んだ。でも、そういう人がいなければ、僕も当時知らなかったと思います。ただ確かに、もの凄い衝撃のレコードでした。
 そこでクリス・ブラックウェルが、彼にお金を渡してレコードをつくらせて、しかもイギリス人にわかるようにオーヴァーダビングをしていなければ、、
―しかもそのさじ加減も、ジャマイカを知るブラックウェルだからこそ、わかった。
バラカン もちろんジミー・クリフやデズモンド・デカーとか、何人か人気のあるジャマイカ人歌手はいたければとも、ボブ・マーリーがいなければ、今のレゲエはない。これは言い切っちゃっていいと思う。

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―そして、ここで改めて繋がりますが、そのボブが頼ったのがリー・ペリーさんであると。
バラカン ボブ・マーリーはもともと国際的な展開をしたいと思っていました。ウェイラーズは当初3人組のヴォーカル・グループですよね。カーティス・メイフィールド&インプレッションズを一つのモデルとして、自分たちも同じような存在になりたいと思っていた。
 カーティスとボブは共通して、真面目な価値観をもった、ある意味で道徳的な曲を60年代につくるんです。そこに60年代後半くらいからボブはラスタの影響が入り始める。
 それで、エチオピアからハイレ・セラシエがジャマイカに来た時にボブはそこにいなくて、お母さんのアメリカの出稼ぎ先に一緒に行って、1年くらいいたんです。そういう時期にアメリカで暮らしていたから、ジャマイカ以外の可能性をすごく感じていたんだと思います。
―白人のお父さんとのハーフということも大きいでしょうか?
バラカン そうですね。とはいえボブは、お父さんがいないところで育っています。
 それで、いろいろなプロデューサーとやる中でリー・ペリーともやって、その時に一緒にやった、後にアイランドで再録音するたくさんの曲がありますが、「リー・ペリーとつくったヴァージョンが一番好きだ」という人は多いですよね。
 特にジャマイカ国内では、アイランド以降のボブ・マーリーはやっぱりロックの要素が強くなる。それはクリス・ブラックウェルがボブを「ブラック・ロックシンガー」と認識していたし、実際にそういった売り方もしていた。だからこそ、世界的にあれだけ広がったわけですが、ジャマイカ人はロックなんて別にどうでもいいし、世界にボブが大きく出て行って活動すると、「なんだオレたちが育てたのに」という、ある意味で「ひがみ」みたいなものも出てくる(笑)。
 だから、いろいろな要素があると思いますが、ジャマイカ人には、アイランド以降よりも、以前のボブ・マーリーの方がいいという人が多い。そして、アイランド直前くらいにつくっていた曲は、リー・ペリーが手掛けていたものが多いんです。
 当時のリー・ペリーは自分のスタジオもないくらいで、伝説とされるスタジオは74年からです。だから「ランディーズ」というスタジオなどを使って制作していたはずですが、彼はエンジニアとしてものすごく才能を持っていた人。当時のジャマイカでは最先端の音をつくっている人ですから、それはボブ・マーリーとしても、いい出会いをしたんだと思います。
(取材:平井有太)
2016.05.17 Tue.

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