【特別寄稿】西田滋彦 「伊賀・忍者・地産地消の精神」(前編)
読みもの|7.22 Mon

ニンニン忍術関係地図_伊賀流と甲賀流

 伊賀について書こうと思う。
 伊賀とは三重県伊賀市。
全国的にも忍者の街として知られている。
 始めに、この記事の投稿者である私の素性を明らかにしておきたい。
みんな電力は「顔の見えるでんき」をコンセプトにしている以上、
電力の生産者と同様に、この記事の生産者である私についても触れなくてはいけない。
 私の父方の祖先は甲賀忍者だと伝えられてきた。
私の名前(西田滋彦)の「滋」の字は滋賀県(甲賀市)が由来だ。
 忍者は素性を明らかにしてはいけない。
忍者の世界は読んで字の如く、忍びの者でなければならないのだ。
 その忍者の血を引き継ぐ私が「顔のみえるでんき」に引きずられ、
「顔のみえる忍者」として露出することを、甲賀忍者のご先祖様にこの場を借りてお詫びしたい。
顔のみえる忍者は、もはや忍者ではない。
忍者失格だ。

ニンニン売店

 さて、伊賀と甲賀。
無論、甲賀忍者を祖先に持つ私は、伊賀に対して厳しい視線を投げかける。
忍者の本流は甲賀にあり。これを疑わずに生きてきた。
 このような私に伊賀市在住の方から一通の矢文(やぶみ)(注)が届いたのは、梅雨入りする前、夏を感じさせる五月のことだった。
(注*現代語訳→「メール」)
 メールでは、伊賀市の小水力発電所の稼働が迫っていること、そして「発電所近辺の地域住民の方がその電力を使う仕組みを構築できないか」ということが書かれていた。
昨今、目にする機会が増えた地産地消の取り組みである。
 伊賀に住む人が目指す地産地消の取り組みを探るべく、この旅は始まる。
失礼、伊賀出張が始まる。

ニンニン忍者屋敷

 私は首都である江戸から伊賀へ移動する。
令和の時代では、ビジネススーツを身に纏うのが世間一般的にも目立たない。
なるほど、ビジネススーツを着用している私には、駅員や車掌から声をかけられることも怪しまれることもない。
 名古屋駅で新幹線を降り、名古屋から近鉄で津駅まで向かう。
この間にも改札という名の関所が存在していたが、切符という紙切れ一枚で関所が開門する。
してやったりと思いきや、私以外の令和に生きる人々も難なく関所という名の改札口をくぐり抜けている。
関所を管理する人間はいない。無人だ。
 令和を生きる暮らしでは人への関心が薄れたのだろうか。
「周囲からの警戒心をいかに解くか」という忍術は、令和では必要とされないらしい。
 宿で一泊。
翌朝、津駅から伊勢中川駅経由にて伊勢神戸駅で下車。

伊勢神戸駅正面

 伊勢中川駅から伊勢神戸駅までの旅路ではトンネルが多い。山々に囲まれた伊賀の地形は、伊賀忍者の文化の形成と無縁ではない。
 伊勢神戸駅から目的地の株式会社マツザキまでタクシーで向かう。タクシーのメーターが5,000円を超えたあたりでようやく目的地に辿り着いた。

株式会社マツザキ

 観光客を誘致する広告や、夢のマイホームの購入を促す広告では、決まって都心からのアクセスの良さを売りものにする。
東京から〇〇分、名古屋から〇〇分、大阪から〇〇分などの告知だ。
但し、伊賀へのアクセスは決して良いとはいえない。
 世間では一般的に価値が高いとする都心からのアクセスの良さ。
これに逆行するかのように、伊賀は古来より都(平城京、平安京)からアクセスが悪いことの価値を静かに主張している。
伊賀は山々に囲まれた盆地であり、人の往来が少ないことで独自の忍びの者の世界が創り出されてきた。
 松崎社長が取り組む電力の地産地消。
私は伊賀という地元で事業を営む松崎社長を目の前にして、以下の疑問に対する解を探していた。
「なぜ、様々な困難に遭いながらも、過去に稼働していた小水力発電所を再稼働させようとしたのか」
 その背景を知るためには、
まず、主役である発電所について筆を進めなければいけない。
 発電所の名前は、馬野川小水力発電所。
発電出力は199kW。
年間の発電電力量は約1,000,000/kWh(一般家庭277軒分)を想定。
標高462mの馬野川より取水し、山の中を直径50cmの丸いパイプで送水し、標高385mの発電所に至る。(総落差77m)発電後はまた元の馬野川に放流を行う。
2019年7月に稼働。

総落差は77m_落下する水のエネルギーを電力エネルギーへ変換する

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 馬野川と聞いても、残念ながら川の名称をご存知ない読者も多いだろう。
馬野川。
この発電所で電力を生み出す川の名称は世間一般的にも固有名詞を知られていない。
ここでも伊賀の忍ぶ姿が垣間見える。
 しかし、馬野川が淀川の上流である事実を知ると、多くの方が理解できる。
関西を代表する大河の流れは、
江戸時代に伊賀に住み続けた忍者衆と、徳川家康に取り立てられて住居を伊賀から江戸に移し、立身出世を遂げた服部半蔵を想起させる。
(地元伊賀=馬野川、忍者界で有名な服部半蔵=淀川の構図)
 服部半蔵の名前にちなんだ東京の地下鉄半蔵門線は、みんな電力の本社の最寄駅(三軒茶屋)にも停車し人々を運ぶ。
半蔵門線が服部半蔵の人間の能力を超越した
「大人数、人運びの術」に思えてくるのが不思議だ。

ニンニン2

 話を馬野川小水力発電所に戻そう。
当該発電所は「百年ぶりの馬野川小水力発電復活」として注目を集めている。
以下、馬野川小水力発電復活プロジェクトニュース第2号より引用する。
 伊賀市奥馬野地域内の旧馬野川水力発電は、大山田村史によると、大正8年に地区の有力者により50キロワット級の水力発電所が設置された。その後、昭和13年に東邦電力会社へ吸収合併され、更に現在の中部電力へ継承された。
残念ながら、昭和33年には、火力発電等の効率的で大規模な発電所の建設が相次いだことにより廃止。
(馬野川小水力発電復活プロジェクトニュース第2号より引用)
 再生可能エネルギーの発電源別でも水力発電所は安定電源であり、かつ稼働年数が長いことが特長だ。明治時代に建設された水力発電所が現在でも稼働していることもある。
 「大正時代、伊賀の地元住民が協力し合い開発をした馬野川小水力発電所。この発電所が稼働停止になった理由は定かではない」
馬野川小水力発電所の実質の発電事業者となるマツザキの社長は語る。
 地元の伊賀で建設業を事業の核とする株式会社マツザキ。
私の目の前の社長が三代目となる。そして、社長の隣に座っているのが三代目社長の母上だ。
 公共工事の縮小により、地域密着で事業を行う建設会社の経営は楽ではない。三代目の社長就任後、新たな事業の柱を模索していた中、三代目社長は伊賀の豊かな自然を活かした水力発電事業に目をつけた。建設業を営む中で、建設機器、生コンを取り扱っており、ノウハウが活用できると考えたからだ。
 三代目社長は休日に水力発電所の立地に適した場所を探し続ける日々を過ごすことになる。
水力発電所に適した場所とは、水量が豊富であり、かつ落差がある場所だ。
滝の如く落ちる水のエネルギーでファンを回し電気エネルギーに変換する。
 社長は100年前に旧馬野川水力発電所が既に存在していたことを知らなかった。
その事実を教えてくれたのは伊賀の地元の方々だった。
松崎社長は伊賀を離れ、東京の大学を卒業し、民間企業に就職をしていた。
その社長が家業を継ぐために伊賀に戻ってきただけでは伊賀住民からの支持や理解を得るには至らなかったのかもしれない。伊賀在住は必要条件だが、十分条件ではなかったのだろう。
松崎社長が伊賀に戻った後の、社長自身の伊賀への想いと行動が伊賀住民の心を捉え、社長は伊賀住民からその事実を知ることになる。
 「伊賀で水力発電所に適した場所はどこか?」
この問いへの答えは、過去に伊賀に住み続けた先人が教えてくれていた。

ニンニン3

 日本国内では2012年7月からのFIT(固定価格買取制度)により、経済的合理性の観点で再エネ発電事業を開始した事業者は多い。民間企業であれば営利の追求を最優先事項として取り組むのは何ら不思議ではない。
FIT制度により覆い隠されがちになってしまったが、営利追求の概念を超え、再生可能エネルギーの電源開発に取り組む人がいる。
大多数の人が経済的合理性の世界を住処とする一方で、ごく稀にその世界から飛び抜けて新たな世界を創造しようとする挑戦者がいる。
その挑戦者は人類の歴史という時間軸の中で、自らの人生における確固たる存在意義を見出している。
 このような人の言葉には魂が宿る。言霊だ。
松崎社長、そして松崎社長の母親から発せられる言葉は、まさに言霊だった。
 大きな資本を持ち得ない民間企業が社運を賭け、馬野川小水力発電を復活させようとしている。
 様々な困難を乗り越えてきたものだけに宿る魂が松崎社長の口から、そして母親の口から発せられる。

ニンニン1

 私は主に再生可能エネルギーの発電事業者からの電力の仕入れを担当している。
必然と発電事業の担当者と接することが多い。
再エネ発電事業者の中で、このような言霊を聞く機会に巡り合えることは、私にとって望外の喜びだ。
世の中に価値を生産しようとする生産者の想いは尊く、果てしない。
 松崎社長が遭遇した様々な困難をこの記事で書くのは容易ではない。
ただ、その一端を取りあげたい(後編に続く)。
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西田滋彦 みんな電力 事業本部 パワーイノベーション部

1980年千葉県柏市生まれ。立教大学社会学部でイノベーションを専攻。四輪車メーカーで「走る茶室」をコンセプトにした商品企画に携わりたいとの思いから入社。京都への出向を志願し実現するものの、いつの間にか営業ノルマに対する精神の摩耗を癒す神社仏閣(茶室)巡りに終始することになる。その後、大阪ガスグループのマーケティング会社で「新市場創造型商品コンセプト」に触れる。外資系太陽光パネルメーカーでは創業1年目より8年間国内の再生可能エネルギーの拡大に努める。
再生可能エネルギーの恩恵をより多くの関係者が享受する仕組みの構築を目指し、みんな電力株式会社に転職。イノベーションの実現こそが最大の社会貢献という信念の元、再エネ発電所の電力を中心とした価値の仕入れ、および新たな概念の価値創出の実現に取り組んでいる。

ENECT、後編は29日(月)の公開です。お楽しみに

 

(取材・文:西田滋彦)
2019.07.19 fri.
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