【最終回】野馬土|南相馬市で稼働するソーラーパネル
津波と原発災害で農業ができなくなり、空いたままの土地で始めた再生可能エネルギー事業の、電力販売先として選んだみんな電力。
「顔が見える」関係に価値を見出し、大切に扱い、実際に道を切り拓いてきた共通項を持つ野馬土とみんでんのこれからと、原発から12キロという立地から見える日本社会の話でインタビューは終わります。
多くの示唆に富み、社会のこれからを考える上で大切な考察、一人でも多くの方々に届きますように。
実際に見て、それなりのショックを受けていただいて、「やはり再エネになんなきゃいけないね」と思ってもらえて、その上で「原発はダメだ」ということを実感としてわかっていただければいいと思っています。
一昨日は宮崎の県会議員の皆さんをご案内しました。視察は全世界、全国各地、北海道や沖縄からも来ますし、来ないところはないですよね。年齢層も広く、子どもや家族連れから、一人で来る方もいますし、グループでバスツアーを組んで来る方々もいます。講演に呼んでいただくことも多いので、その時には「一人からでもご案内します」と呼びかけています。
3年前くらい前までは3000人近くを、私一人でやってきましたが、今は9人くらい案内人がいます。まだ、この再エネの取り組みについては私以外は話せませんが、純粋に被災地の状況を見る分には他の案内人もできます。
ですから、一度はここまで足を運んでいただいて、「今どうなっているか」を見ていただく、エネルギーのきっかけにそういうチャンネルにしていただけたらと思います。
そうすると、状況は常に「原発がどうなるか」ということと抱き合わせなわけです。
私たちは経産省のエネ庁に行くと、いつも「本当にもう爆発はないですよね?」と聞くんです。この前は原研の所長にも言われたんですが、最初は「大丈夫です、大丈夫です」と言うので、「本当に大丈夫なの?」と聞くと、だんだん「100%ではないですね」とか、「大きいのはないと思います」と言うようになるんです。
同じような質問には、エネ庁の人たちは「なぜかわからないけど、今デブリは安定しています」という答え方をします。
三浦さんは、車も電気自動車
じゃあ「そんなデブリの近くに避難指示解除して、市民を戻すというのは、どうなの?」と聞くと、それに関しては無言です。
だから、常に原発との関係で睨み合いなんです。それで少なくとも、ここに太陽光と風車を立てたら、それらは機能します。農地は、あそこが落ち着いてくれさえすれば、農業再開ができます。ですから再エネのお金で準備は整えておくけれども、本当にここを農地に戻せるかどうか、何にせよあと5年はかかるんです。
これから2年間は調査、1年間で申請を出し、その次の年から工事を始め、一部ここの26ヘクタール分だけは「平成34年からつくれますよ」という計画です。
要するに「オリンピック、オリンピック」言っていて、だから避難指示解除の条件も、最初は「ライフラインが整う」こと、「除染が完了する」こと、そして「生業ができる」ことというのが3条件でした。
それが避難指示解除の説明の時は、「家のまわり20メートルが除染終わりました」、「ライフラインは一部整いました」、「『帰りたい』と言っている人がいるのに、避難指示が解除されていなければ帰れないでしょう?」。そして、「オリンピックがあるのに、避難指示解除が順調にいかなければ、海外の人、来てくれませんよ」とまで、、
これ、内閣府の人が説明会で言うんですよ?こっち、関係ないじゃないですか。
その説明会で、私はずっと手を挙げ続けていたんですが指してもらえなくて、最後に「悪いけど、オレ、今日は話しに来てるんだから喋らせてもらうよ」って、それも「終わりです」って言われてから20分喋りました(笑)。
要するに、「小高区役所の脇に霞が関の官僚が来て、一緒に復興事業をやるならオレたちも頑張れる」と。でも、現場を知りもしないのに、あの人たちが言うのは「応援します」だけだから。「一緒にやる」というスタンスなら信じられるけど、そうじゃなくて東京から応援されてても、それじゃあ「信用できないよ」と。だから「庁舎つくってここに来い」と言ったら、そこはやっぱり無言でした(笑)。
それくらいの話ですよ。
ここは危険地域で、それが今だになくなってなくて、ここの「復興」というものは、原発がこれからどう処理されるのか。チェルノブイリみたいな石棺なのか、それこそつまらないメンツでデブリを取り出されて大変なことになったら、たまりません。
だからそこは両睨みで、こちらは準備もしますし、東京電力にもプレッシャーをかけたいわけです。この前交渉の時、経産省の人に「東京電力を潰したらどうですか?」って言ったら、「廃炉のために必要なんです」って、そこだけ即答でした(笑)。
私は東北電力も東電も交渉してきましたが、彼らには決裁権がない。賠償の基準なんか、「誰がこんなおかしな基準決めたの?」って聞くと、「みんなで決めたんです」と彼らは言います。「その会議には主催者がいるはずで、それが責任者じゃないの?」と返すと、「そういう人はいないんです」と。「じゃあ、社長なの?社長にしか決裁権ないの?」と聞くと、「そう言われればそうですが、社長にも覆す権限はないんです」と言うわけ。
つまりどこにも責任がなくて、彼らが何を言いたいかというと「国が決めるんだ」と言いたいんです。それは東北電力も同じで、決めるのは国で、彼らは間違っているのも認めているのに、それでも変えられないと。
そういう「どこも決められないシステム」が、日本の電力の世界というか、日本社会にはびこっています。だからそういう体制そのものが、原発をやめたくてもやめられない構造を温存しちゃっているんじゃないかと思うんです。
発電事業でも、私たちはもう認可もとってソーラーシェアリングも始めますが、他にもあらゆることをやっています。東電や国にプレッシャーをかけながら「線量のモニターを増やせ」、「何かあったら隠さずにサイレンを鳴らせ」と言い続け、彼らはとにかく言わないとやりません。
というか、このままにしておけないじゃないですか!
彼らは「もう平気だ」、「戻って住め」みたいなことを言うけれど、私たちと面と向かって話すと、だんだん顔が下を向き始めます。
やっぱりそれは、彼らは霞が関で考えて構成をつくっているけど、現場にいるのは私たちじゃないですか。そこの説得力は全然違うし、特に私は口数も多いので(笑)。
人々が移住してきた当時は、収穫量が少ない上にすべての米を地主に取り上げられて、「食う物も残さない」ということで大闘争をして、米を隠して生協に持って行って預かってもらったみたいな話を、子どもの頃から聞かされてきました。
だから原発事故後、最初は逃げたりもしたんですが、まわりの残った仲間から電話がかかってきたり、東京のお米屋さんからは「東京にいるなら、カンパするから来て」みたいなことで200万円くらいがすぐに集まって。
だから逃げられないということもあるんですが(笑)、その、初対面で「フランスに移住して」みたいな方も含めて、応援してくださる方がいっぱいいるんです。
そういうものをすべて受け止めて、消費者、お米屋さん、国と県と市、農協とも話しながら、時には農協の組合長からも羨ましがられる自分の機動性を維持しながら、やっぱり大切なのは現場と官庁を全部繋げるという意味で、これまでの経験がすべて活きたんだと思います。
この地から発信してきた食にエネルギーも加えながら、さらに多くの方々に、福島に想いを寄せてもらえる枠組みをつくっていければと願っています。
大苦難も、笑顔とバイタリティで何とかなると思わせてくれた野馬土・三浦さんインタビュー、いかがでしたでしょうか?
次回からはまた通常通り、毎週月曜更新のENECTスペシャル・インタビュー、お楽しみに