2017.03.12
2012年1月時点の原発から20キロ圏内には、今すでに見ることができなくなってしまったものがあります。それらは例えば富岡駅の駅舎、内陸まで津波に運ばれてきた船、さまよう牛たち、原発の標語アーチ。 そこでは、劇的に変わっていくものと、そのままそこに在り続けるものが共存します。前回との対比で、時の流れをより感じることができるかもしれません。 確認しておきたいのは、福島でつくられていた原発のエネルギーを使っていたのはすべて、首都圏の生活者だったということ。そして、世界に「FUKUSHIMA」の名を知らしめた未曾有の事故は、現在進行形で、今もそこにあるということです。
津波は富岡駅周辺まできて、駅舎と、周囲の建物の1階をくり抜いた。
その後駅の反対側にはまずフレコンバッグが積まれ、減容化施設ができた
2015年4月訪問時、夜ノ森の桜が満開の様子。
本来シーズンは、県内外からの人々で溢れていた。ここはちょうど、帰還困難区域との境目でもある
浪江町の請戸。漁港の町。
今はもう船や車、瓦礫はほぼきれいに集められていて、だだっ広い平野を、トラックが砂塵を巻き上げながら走っている
彼らがその後どうなったかは、知らない
病院前には、事故直後の大慌てだった形跡。
原発の標語アーチは2つあり、その前後それぞれに別の標語が、計4つあった。今はすべて撤去された
エネルギーのポータルサイト「ENECT」編集長。1975年東京生、School of Visual Arts卒。96〜01年NY在住、2012〜15年福島市在住。家事と生活の現場から見えるSDGs実践家。あらゆる生命を軸に社会を促す「BIOCRACY(ビオクラシー)」提唱。著書に『虚人と巨人』(辰巳出版)など https://www.facebook.com/dojo.screening Twitter @soilscreening
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