【初回】野馬土|南相馬市で稼働するソーラーパネル
読みもの|4.16 Mon

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津波被害を受けた南相馬市と浪江町の市境付近。福島第一原発は林の向こうにある

  場所は福島県は浜通り、海沿いの南相馬市。
 ニュースで取り上げられることも減り、復興とオリンピックに向かう明るい話の影に取り残された、今も問題山積みな旧警戒区域の地。そこで頼もしく進む、根源的に前向きな取り組みについて、全一万字のインタビュー。
 主人公は、「被災地に三浦さんが3人もいれば、一つの市や町は復興しますね」と実際に言われ、話を伺っていれば、もし10人いらっしゃれば「福島県そのものが復興しそう」と感じざるをえない、エネルギー溢れる野馬土・三浦広志さん。
 市も県も国も直接相手にしながら、まさに「顔が見える関係」をフル活用し、机上の空論など存在しないかのように、具体的に話を進め続ける姿には感服の一言。
 みんな電力が供給をはじめた、原発から最も近いソーラーパネルが稼働するまでに何があったか、その根っこにどんな想い、経緯があったか、真面目で痛快なお話、初回(全3回)です。

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ーまず「野馬土」というお名前の意味からお聞かせ願えますか?

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三浦 私は2011年の3月19日から東京に避難して、そこですでに農水交渉とかいろいろやっていました。すると4月に、付き合いのあるお米屋さんから電話があって「紹介したい人がいるから、渋谷の喫茶店に来てくれ」と。
 それで行ったら「もう福島では農業はできないでしょう?」、「フランスに農地を用意した。みんなで移住してブドウ園をやらないか」と言われたんです。私は浜通りの人間で、とりあえずは避難しましたが地元に残った人もたくさんいるし、すでに国との交渉に入っていたので丁重にお断りしました。それで、2011年はフランスから付いた予算を、京都や全国に避難した福島県民の応援に使ったんです。
 すると次の年は「福島そのものを応援したい」という話になって、「何かやらないのか」と聞かれました。そろそろ事務所をつくる段階に入っていたし、直売所の構想もあったんですが「建物はダメ」と。代わりに何らかソフト面で応援してくれるということで、それについて「プロジェクトをつくりましょう」となりました。
 それで池袋にあった農民連の本部を借りて、取り組みを始めながら「名前を付けなきゃならないよね」と話し合い、そもそもフランス移住の話をくれたのは日仏会館の館長の奥さんで、レンヌ大学の准教授でした。その旦那さんもやっぱりレンヌ大学の教授で、彼らにも「名前は考えたの?」と急かされ、それで思いついたのが「野馬土」でした。
 そこには3つの要素が込められています。
 一つは英語で「NOMAD=遊牧民」、つまり「土地を追われた避難民としての福島の人たち」という意味。もう一つは「浜通りで復興プロジェクトをやる」という話もあったので、「野馬追の土地で避難民たちが再建、復活していく」という意味。そしてもう一つが、「福島はこれからどんどん情報が閉ざされていくだろう」と。でも、その福島で活動をしていく私たちに「活動しながら情報発信して」、つまり「『野』に開かれた『窓』の役割を果たして欲しい」と。
 そうやって、プロジェクトとして「野馬土」は始まりました。そして、支援いただくにあたって「協同組合ではダメだ」と。ウチはそもそも農事組合法人で、それだと組合員だけにお金がまわってしまうので、それはフランス財団としては支援できないとのことでした。
 最初は受け皿として「農民連でいけるか」という話もあったんですが、復興や情報発信の活動をする上では「やはりNPOがいい」ということになり、10月に正式に「NPO法人・野馬土」がスタートしたんです。
ー三浦さんと農民連の関係は?

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三浦 当時は浜通り農民連の副会長で、今は事務局長をやっています。農民連は内部でケンカもしょっちゅうしますが(笑)、それは健全な「みんなが従順になっちゃいけないよ」という姿勢の表れでもあります。

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取材日、東京から三浦さんのところへ行く途中、富岡町にある桜の名所・夜ノ森の桜並木はちょうど満開

ー三浦さんは当初から、とても積極的に動かれていた。
三浦 私は東京に避難していたので、外からモノが見れたんです。それで震災の年の3月24日が第一回の農水省交渉でした。交渉は続けて31日にもやって、その間こちらに戻ってきて相馬市新地町南相馬市の行政や農協もまわって、「国はこういう政策を出そうとしているけど、こっちには来ない」と伝えました。それはちょうど私が、面と向かって「私たち国家公務員は、福島のような危険なところには行ってはいけないことになっています」と言われた時期でした(笑)。
 3月24日、当時の課長補佐が「三浦さん、生きてたんですね」って目を真っ赤にして手を握ってくれたんです。でも、こちらが「南相馬で一緒に復興計画をたててくれ」と言った時に返された言葉が、それでした。正直結構な衝撃でしたが、向こうは泣きながら謝るわけです。
 あれから農民連としては政府交渉、東電交渉を3、4ヶ月に一回やっています。そこでこの話を時々しても、国家公務員の皆さんは誰も反論しません(笑)。だから当時は、そういう通達が実際にあったということです。
ー国民が実際に住んでいる場所に、すごい話です。

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帰還困難区域を縦に横断する国道6号線沿い、側道に入る道はすべてゲートで封鎖されている

三浦 だから、その話を聞いて当然「じゃあなぜ、県民を避難させないんだ!」って言ったんだけど、「それはできないんです」と言うわけです。だから、「霞が関は別人種なのか?」とか言いながら。
 何にせよ役人はそうそう来ないわけだから、自分でこっちに戻って、行政や農協をまわって「できることは何なのか」ということを分析して、それをまた農水に伝えるという活動をずっとやっていたんです。
 だから「復興組合」というものも、要請した予算はついたんだけど、市役所の職員も「自分たちも被災者で、その上人もいなくなってるし、忙しくてやってられない」と。その上農水は、「水系ごとに復興組合をつくれ」と言ってきました。川の流れ、水路ごとって、すごい大々的なものになるのに、そんなものを事務局として担えるところなんかなくて、こちらではみんなで押し付けあって。でも同時に、それは農家の失業対策にもなっているわけで、やらないとお金が入ってこない。
 だから農水に行って、担当の課長補佐さんに「できないって言ってるよ」と。すると「財務省がうるさいんです」と。でも諦めないで「財務省は何て言ってるの?」と聞くと、大事なのは「共同でやること」と、「実際働いてる人にお金を払うこと」の2点であると。それを聞いて「じゃあ、別に水系じゃなくていいじゃん」と。
 そういう時は、こちらから提案して知恵をつけてあげると「いけますね」となるんですが、そもそも彼らは現場を知らないから発想が出ない。かたや現場は現場で意見を聞けるような状況じゃないし、市や県は国に言われたらそれしかないと思っちゃって、「できません」という返事しかない。
 だから、私がそこを「できる状態」にもっていく作業をして、実際に「やろう」ということで、最初は農民連だけで始めました。農水と直接やりとりしながら、それを市に報告したら今度は「勝手なことするな」と、つまり農民連だけでやるとまわりからいろいろ言われることもあるわけです。
 それを今度は県に相談して「それは国の事業です。市長に応援することはできても、止める権限はないので、こちらから言います」ということで、次の日には実際に市から「やってください」という連絡も来て、それでスタートできました。とにかく早くしないと、年度末までに全部をやりきるには間に合わなくなってしまうので。
 一度そうなると、今度は「やらない」と頑張ってた相馬市は9月からすべての集落に復興組合をつくったし、新地町は農民連以外で一つの復興組合をつくって、でもそれも、農民連が役場の責任者にやり方を教えながらやるという(笑)。

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ー農民連、頼もし過ぎます。

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三浦 そういう風にスタートしてきたので、初年度からお金はだいたい満額入ってきました。
 市役所や町役場の人間が「できない」となる時は、その場で農水省の官僚に電話して「何とかならないの?」、「今、電話替わってください」みたいなことでその場で直接話すと「できるようになりました」みたいな(笑)。
 国にも頻繁に行ってたし、むしろそうしないと進まない。向こうはこっちに来ないし、こっちはいっぱいいっぱいな最中、私はヒマだったわけです。農業できなくなっちゃってるから。
ー不幸中の幸いというか、おかげで溢れる想い、有り余る人間力を注入できた。
三浦 そして、農水省交渉も慣れたものでした(笑)。
 私は32、3の頃から農水省交渉をずっとやってきたんです。農民連をつくった次の年には「青年部をつくれ」となって、最初から青年部の事務局長を2年、部長を3年やって、計5年間東京に毎月通っていたんです。農民連本部も私に合わせて、日程を組んでくれていました。要するにずっと「現場」で、当時は「最若手」でした。
 交渉も農民連としての後に、私だけのコーナーがあったりするんです。本部も慣れたもので、「三浦、担当者を呼んでもらうから別室でやれ」みたいなことで、だいたい物事はそれで解決してきましたし、そういう英才教育をしていただいたんです。
 今はそれを青年部に、「予算はこうやるとすごくとれるよ」と教えています。それがとれればいろいろな事業展開ができるのに、私の後の青年部部長は3代やってこなかった。だから、若手と呑みながら「やらなきゃもったいない」、「国が動くんだぜ」とか言いながら(笑)。
ー三浦さんが10人くらいいたら、福島県はガラッと変わっていた気がします。

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三浦 NHKのディレクターにも「三浦さんみたいなのが3人もいれば、一つの町は復興しますね」って(笑)。
 それから、以前に一度水俣に呼んでいただいた時「分断されちゃうから、一緒にやらなきゃダメだよ」ということを教えてもらったんです。
 例えば2011年の4月26日には、農民連で東電本店前に牛を連れて行きました。
 最初は「福島の東電本店前で座り込み」という提案だったのが、原発で働いている福島の人もたくさんいるわけです。ケンカの場所が福島内になってしまうのはよくないということで、代わりに「東京の東電本店前で」ということで盛り上がって、それだと「福島対東電」という構図ができるわけです。そうして「バス6台で行こう」とか、牛も、福島から連れて行くと大変なので千葉の農民連から借りることにして(笑)。
 それまで東電はなかなか交渉に応じなかったのが、それ以降、断ったことは一度もありません。今は、私の携帯には月曜から金曜まで、毎朝9時半に東電の賠償担当者から電話がくるようになったんです。

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三浦さんの事務所は、一時的に市の土地に仮で引っ張ってきたトレーラーハウス

 

耳を疑いたくなるような当時の状況と、それを余裕で跳ね除ける三浦さんのバイタリティ。
南相馬市に設置されたソーラーパネルに込められた想いへと、話は続きます

 

(取材:平井有太)
2017.3.31 sat.
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