ITはかせMr. Hiroseのデジタルをタドる!Vol. 5 「パソコンの誕生」
読みもの|12.14 Tue

トランジスタを凝縮した集積回路からマイクロプロセッサが誕生して、コンピューターの世界に大きなブレークスルーが起きました。

▼前回のお話▼

コンピューターの小型化、高性能化、低価格化が進み、世界を支配していた恐竜とも言える大型電子計算機を脅かす小さな哺乳類に例えられるパーソナルコンピューターがついに姿を現しました。今回はそんな「パソコン」がどのようにして誕生したのかたどってみましょう。

■ 若者たちの反乱

1960年代、アメリカの西海岸では、米ソ冷戦の中、ベトナム戦争の泥沼化を批判する若者たちを中心に既存の社会制度や規範、文化に反発して革命を叫ぶカウンターカルチャーが勃興しました。禅などの東洋思想、麻薬やヒッピー文化などに傾倒する若者が増え、ビートルズやボブ・デュランが大ヒットし、反核、女性解放運動、エコロジーなどが表舞台に姿を現しました。スティーブ・ジョブズもその影響を強く受けた一人でした。

ちょうどこの頃、コンピューターの世界でも同じような革命が起ころうとしていました。計算の機能をワンチップに集約した安価なマイクロプロセッサが市場に出回ると、シリコンバレーで数人の学生が「ホームブリュー・コンピュータクラブ」というパソコン同好会のようなものを立ち上げました。自分たちが好きなだけ使えるコンピューターを作ろうというのがこのクラブの目的でした。

学生たちは大学でIBMなどの大型電子計算機を使っていましたが、学生たちが自由に使うことが出来る代物ではなく、まさに大人たちが作った権威の象徴でした。若者たちは、マイクロプロセッサを使って、大型電子計算機という権威をぶち壊して、コンピューターの技術を自分たちで解放しようとしたのです。ねずみのような小動物が自分たちの住処を探してうごめき始めたのです。

■ 最初のパソコンApple誕生

このホームブリュー・コンピュータクラブのメンバーに、後にスティーブ・ ジョブズとアップルコンピ ュータを設立する25歳のスティーブ・ウォズニアックがいました。13歳でトランジスタを使って原始的な計算機を作るほどの知識を持ったデジタルの申し子でした。彼はカリフオルニアに住む4つ年下のジョブズの自宅のガレージで、1974年に小さな会社を数人で始めました。ジョブズが乗っていた中古のフオルクスワーゲンとウォズニアックが使っていたヒューレット・ パッカードの関数電卓を売ったお金が設立の資金でした。

彼らは、自分たちのコンピューターをクラブで自慢したり、ゲームで一日中遊んだりしたいという子どものような夢を実現させるために夢中で働きました。ウォズニアックは、コンピューターのハードウエアの設計だけでなく、AppleIIに搭載したプログラム言語BASICの開発まで一人でこなしました。AppleIIが世に出たのは、会社設立から3年後の1977年でした。

IBMやインテルという格式張った名前でなくアップルという奇妙な社名も権威や体制に対する一つの挑戦でした。AppleIIに使用したマイクロプロセッサは、当時標準になろうとしていたインテルの8080チップではなく、圧倒的に安かったモステックと言う会社の6502というマイナーなチップが使われました。この選択が、今後のアップルの独自路線を決定付けました。

パーソナルコンピューターという名前もなく、マイクロプロセッサを搭載した基盤がむき出しのコンピューターをマニアが自作していた時代に、キーボードやTVディスプレイへのビデオ表示機能、BASIC言語など、コンピューターとしての機能を一通りそろえて最初から組み上がっていた彼らが作ったコンピューター、AppleIIは、ユーザーの心をとらえ、世界的な大ヒット商品になりました。

ホームブリュー・コンピュータクラブでは、自分で知り得た知識は全て公開する、優れた技術はみんなで自由に分かち合うと言う原始共産主義に似たハッカー倫理が支配していました。この考えで設計されたAppleIIは全ての仕様を公開していました。そのおかげで数年のうちに、おびただしい数のアプリケーションソフトと周辺機器が揃いました。

しかし、良いことばかりではありませんでした。設計図を公開していましたので、AppleIIの中身をそっくりコピーしたPineAppleやOrangeという名前のパソコンが雨後の筍のように現れ、アップルにとって悩みの種になりました。

■ 眠れる巨人IBMの参入

その当時、コンピューターの巨人IBMは、パソコンという小動物の動きを静観していました。そんなものは所詮、子どものおもちゃのようなものだと高を括っていました。しかし、百万台を超えるAppleIIが市場に出 るようになり、会社の複雑な集計処理でも使えるビジカルクという表計算ソフトがヒットすると、IBMのテリトリーであるビジネス分野の領域を侵し始めました。IBMは、ようやく重い 腰を上げビジネス向けのパソコン、IBM-PCの開発を始めました。アップルは巨人IBMの参入に対して、「ようこそIBM殿」という次のような広告を出して挑戦を受けて立ちました。

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Welcome IBM, Seriously ようこそIBM殿

35年前にコンピユータ革命が始まって以来最も活気のある、重要な市場へようこそ。

貴社初のコンピューターの発売にお祝い申しあげます。

パソコンが使われ始めてから、人ぴとがより良い方法で働き、考え、学ぴ、意思を伝え、余暇を過ごすようになっています。コンピューターを使えることが急速に読み書きと同じ基礎的技能になりつつあります。

我々が、最初のパーソナルコンピューターを考案したとき、当社は、その便利さが分かりさえすれば購入しても良いと言う人の数は世界中で1億4000万人以上になるものと予測しました。来年1年間だけで100万を優に超える人ぴとがそうした認識をもつにいたるものと見積もっています。今後10年間にわたって、パーソナル・コンピューターは対数的な伸ぴを続けることでしょう。

このアメリカのテクノロジーを世界に配拾するという大きな仕事において、当社は責任ある競争を期待します。そして貴社の参入の重大なる意義を深く認識するものであります。我々は仕事を通して個人の生産性を伸ばすことにより、社会資本を増大させていると信じているからです。この重大なる任務にようこそ。 
ーApple Computer in 1981ー

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純血主義のIBMは、今までハードからソフトまで全てを自社開発するという方針でしたが、そのやり方では、コスト面、開発のスピード面でアップルなどの新興勢力のパソコンメーカーに太刀打ちできませんでした。そこで、今までのプライドを脱ぎ捨て出来るだけ外部のリソースを活用し、技術を開放してサードベンダが自由に周辺機器やアプリケーションを開発できるオープ ンアーキテクチャを採用しました。これは、アップル がとった戦略と全く同じものでした。

■ 初めてのソフトウエアカンパニーMicrosoft起業

同じ頃、インテルの8080チップを使ったMITS社のアルテア8800という通信販売の組み立てキットが登場しました。コンピュータとしてのハード的な要素は全て揃っていましたが、プログラムを組むために正面パネルの8個のトグルスイッチで2進数のマシン語を入力するという前時代的な代物でした。このアルテアの記事が掲載された「エレクトロニクス」誌を読んだ学生のビル・ゲイツは、パソコンのソフトウェアがビジネス になることを直感し、友人のポール・アレンと1975年に会社を設立しました。これが、世界で最初のソフトウエアカンパニーであるマイクロソフト誕生の瞬間です。

彼らの最初の仕事はアルテア用のプログラム言語BASICの開発でした。アルテアを持っていなかった彼らは、アレンが大学の大型コンピュータを使って8080チップと同じ動作をするエミュレータを書き、それを使ってゲイツがアルテア用のBASICを開発するという手の混んだものでした。BASICは、マシン語より遥かに英語に近いもので、コンピュータの仕組みを知らなくてもプログラムを組むことが出来ました。これは、当時のパソコンにとっては、画期的なことでした。マイクロソフトのBASICは、ほとんどのパソコンに搭載されて事実上の業界標準になりました。

■ 幸運を逃してしまった男

IBMは、パソコンの開発のために、オペレーティングシステムも外部から調達しようとしていました。オペレーティングシステムは、オーケストラの指揮者のような役割をするもので、演奏者にテンポや音の強さの指示を与えて曲を先導するように、アプリケーションソフトがうまく動くように、コンピュータを制御したり指令を出したりする重要なソフトウェアです。 Windows、MacOS、Linux、iOS、Androidなどが代表的なオペレーティングシステムです。

IBMは、1980年当時、8ビットCPUの分野で先端を走っていたCP/M(Control Program for Microcomputers)というオペレーティングシステムで実績のあるデジタルリサーチという会社に開発を依頼するつもりでした。しかし、当時、自家用飛行機に夢中だった社長のゲイリー・キルドールは、テスト飛行のために、IBMとの会合の約束をすっぽかし、その代わりに家にいた妻が対応しました。彼女はIBMが提示した契約書が会社に不利に書かれていたことを不服としてサインをしませんでした。

彼らは、次にマイクロソフトを訪ね、デジタルリサーチと同じ条件の契約書を提示しました。パソコン用のBASICの開発の経験はありましたが、オペレーティングシステムを作ったことがないという負い目のあったビル・ゲイツは、この不利な契約書にサインしました。これがドル箱になるWindowsを手に入れる最初の第一歩でした。

ゲイツは、シアトルにあったシアトル・コンピュータ・プロダクツという小さな会社が開発していたQDOS(Quick and Dirty Operating System)というオペレーティングシステムを手に入れて、それに改良を重ねて、Windowsの前身であるMS-DOS(MicroSoft Disk Operating System)というオペレーティングシステムを短期間で作り上げました。パソコン用のオペレーティングシステムの種を蒔いたのはキルドールでしたが、収穫をしたのはゲイツでした。

■ まとめ

ようやくパソコンの元祖が登場しました。しかし、その頃のパソコンは、操作が難しく、パソコンオタクや技術に精通した人には歓迎されましたが、テレビなどの家電製品のように普通の人が使いこなせるものではありませんでした。その後パソコンは、より使いやすく洗練されたものになって普及していきます。次回は万人が使えるパソコンを目指した MacintoshやWindowsのお話をいたします。

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記事を作った人たち

タドリスト
廣瀬隆夫
横浜生まれの横浜育ち。シニアITコンサルタント。Macのお絵かきソフトに出会ってデジタルのおもしろさに目覚める。体力は衰えたが好奇心だけは旺盛。レバニラ炒め定食が好物。お酒は好きだが、すぐに顔に出る。