ITはかせMr. Hiroseのデジタルをタドる!Vol. 7 「スマートフォンへの飛躍」
WindowsやMacintoshの登場で特別な知識がなくても簡単に使うことができるパソコンが普及しました。その後、パソコンは携帯電話と出会い、誰でもいつでもどこでも使うことができるコンピューター「スマートフォン」へと進化して世界中に広まりました。
目次
Windowsパソコンの普及
1984年に登場したMacintoshは、パソコンの概念を変えてしまうほどのインパクトを業界に与えましたがマイクロソフトが築いたパソコンの牙城を崩すことは出来ませんでした。当時はMS-DOSを搭載したパソコンが普及していて、新しくPCを買わなくてもWindowsのパッケージソフトをインストールすればMacintoshと同じ環境を手に入れることが出来ました。新たに高価なMacintoshを購入するユーザーは少なかったのです。
Windowsをインストールしたパソコン 1984年
アップル、ジョブズを更迭
経営基盤を建て直して一流企業の仲間入りをするために、1983年に、ジョブスはペプシチャレンジなどの奇抜な販売戦略で、「マーケティングの天才」と言われていた東海岸に本社がある世界有数の食品メーカーのペプシコ社長のジョン・スカリーをスカウトしました。「このまま一生、ペプシの砂糖水を売り続けたいのか、それとも私とアップルで世界を変えたいのか?」という口説き文句が移籍の決め手になりました。
スカリーはCEOに就任し、ジョブズとダイナミック・デュオと呼ばれる体制を組みました。しかし、個性の強い2人の意見は度々衝突して思惑どおりには進みませんでした。華々しく発表されたMacintoshは一部のエグゼクティブやデザイナーには受け入れられましたが、ビジネス分野では販売が伸びず在庫は増える一方でした。若いジョブズは、傍若無人な振る舞いも災いして取締役会から孤立し、1985年に経営不振の責任を取らされる形で自分が招き入れたスカリーから引導を渡されアップルを解雇されました。
経営者としてのジョブズ
アップルを追放されたジョブズは、Macintoshと競合しないという条件で、高等教育の研究者向けのコンピューターを製造するNeXT(ネクスト)という会社を1985年に創業しました。NeXTは商業的には成功しませんでしたが、1990年に現在のブログやSNSの礎になる人類初のウェブページ(WWW)がNeXTコンピューターのツールを使って開発されるなど、インターネットの発展に大きな貢献をしました。
また、1986年、ルーカスフィルムのアニメーション部門を1000万ドル(約8.5億円)で買い取り、ピクサーアニメーションスタジオを起業しました。1995年には、世界初のフルCGアニメーション作品のトイ・ストーリーがヒットして3億7000万ドル(約420億円)以上の興行収入を記録するなどアニメーション業界に旋風を巻き起こしました。2006年、ピクサーはディズニーの完全子会社となりました。
ジョブズは、アップルを離れた10年間の会社経営を通してビジネススキルを身につけていきました。
アップルの迷走、経営不振
1995年に、Windows95が発売されて爆発的に普及するとアップルの経営不振は、より深刻なものになりました。WindowsとインテルのCPUを搭載したコンパックやゲートウエイ、デルなどのベンダーが製造したパソコンはWintel(ウインテル)と呼ばれて快進撃を続けていました。アップルは、柳の下の二匹目の泥鰌をねらってマイクロソフトのビジネスモデルを模倣する苦肉の策に出ました。門外不出だったMacintoshのオペレーティングシステム(MacOS)をライセンス供与して、互換機ビジネスに参入したのです。
パワーコンピューティング、ラディウス、モトローラ、パイオニア、UMAX、デイスターデジタル、アキア、バンダイなどがアップルからライセンスを取得してMacintoshの互換機が販売されました。しかし、結果は3年間でMacintoshの売上が3分の1も減少して企業から得られるライセンス料も売上減少の埋め合わせにはなりませんでした。アップルは創業して初めて倒産寸前のピンチに陥りました。
モトローラのMacintosh互換機 1995年
バンダイのMacintosh互換ゲーム機「ピピンアットマーク」 1996年
ジョブズ、アップルに戻る
1993年にジョン・スカリーが退任した後、アップルは、猪突猛進な性格で「ディーゼル」というあだ名を持つマイケル・スピンドラーやナショナル・セミコンダクター社を建て直して「再建屋」の異名を持つギル・アメリオという豪腕で知られる経営者を次々に社長に抜擢しましたが業績は一向に改善しませんでした。
1996年、アメリオは、ジョブズのNeXT社を4億ドル(約450億円)で買収し、Macintoshの次世代OSにNeXTのOPENSTEPを採用することを決定しました。アメリオが退任後、アップルの取締役会は、起死回生を狙ってジョブズを社長にする決断をしました。ジョブズは、「年俸は1ドル」という条件で、1997年に暫定CEOに就任しました。この1ドルの年俸は終生続きました。
経営の第一線に復帰したジョブズは、1998年に「Think Diffrent」という大々的な広告キャンペーンを打ちました。マイクロソフトの戦略の模倣を止めて、独自路線で、もう一度ビジネスを立ち上げ直すというアップルへの復帰宣言でした。
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Think different
We make tools for these kinds of people.While some see them as the crazy ones, we see genius.Because the people who are crazy enough to think they can change the world, are the ones who do.
クレージーな人たちへ
私たちは、そんな人たちのための道具を作る。クレージーと言われる人たちを、私たちは天才だと思う。自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが、本当に世界を変えているのだから。(1998年1月18日 読売新聞 朝刊の広告より抜粋)
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MacWorldで配った宣伝用のシール 1998年
当時、アップルは互換機ビジネスの失敗などで深刻な資金難に陥っていました。ジョブズは、次の2つの条件と引き換えにマイクロソフトに資本参加を持ちかけました。
① WindowsがMacintoshのGUIを盗用している、という著作権侵害訴訟を取り下げる。
② 今後出荷する全てのMacintoshにInternet Explorerを搭載してデフォルトのブラウザにする。
マイクロソフトは、この申し出を承諾して1億5000万ドル(約170億円)相当の議決権なしのApple株を購入して3年間は売却しないという条件でアップルの大株主になりました。マイクロソフトがアップルの再建に手を差し伸べたのは、Windowsが市場の9割以上を占めており、アップルが倒産すると反トラスト法(米独禁法)訴訟の裁判で不利になるという事情があったからと言われています。
ジョブズは、互換機ビジネスから撤退してMacintoshのオペレーティングシステムをNeXTが開発したOPENSTEPをベースに作り変えました。また、複雑化した製品構成をシンプルにし、アップルのすべての製品をインターネット対応にしてiの頭文字を付けてWindowsパソコンとの差別化をしました。
その第一弾として、全く新しいコンセプトのiMacを発表しました。インターネットに簡単に接続でき、オールインワン、高性能、半透明のラディカルなデザイン、キュート、入手しやすい価格など、今までのパソコンのイメージを180度変えてしまう画期的な製品でした。発売して4ヶ月で80万台を出荷するという大ヒット商品となりました。
iMac G3 1998年
ナレッジナビゲーターとニュートン
アップルは、Personal Digital Assistant(PDA)というSiriのような人工知能(AI)を内蔵した持ち運びができる小型のコンピューターの研究をしていました。1988年に未来のコンピューティングを予想したKnowledge Navigatorというプロモーションビデオを公開しました。
https://www.youtube.com/watch?v=yc8omdv-tBU
Knowledge Navigator 1988年
1993年に、アップルは、画面を電子ペンでなぞって操作できるNewtonという小型のPDAを開発していました。Newtonは、一部のマニアには支持されましたが、形状が大きく高価だったため販売台数は伸びませんでした。ジョブズは、Newtonのタッチスクリーンに興味を持っていましたが、普及させるためには電子ペンが邪魔だと考えていました。後にジョブズはNewtonの開発を中止しました。
初代 Newton 1993年
iPodの成功と指をマウスの代わりにするというアイデア
2000年に入ると、ジョブズは、iPodというポータブルオーディオプレーヤーをヒットさせました。iPodは、ソニーのWALKMANを小型化して半導体メモリに置き換えただけではありませんでした。iTunesというソフトを使ってクラウド上のサーバーから楽曲をダウンロードして購入することができました。iPodは今までのCDによる音楽流通の形態を根本から変えました。iPodのユーザーインターフェースは、指先でホイールをくるくる回して選曲するという斬新なものでした。
初代 iPod 2000年
アップルは画面に指で触れる時に発生する静電容量の変化をセンサーで感知してタッチした位置を把握できるタッチスクリーンに注目していました。2005年、FingerWorksというキーボードに代わるトラックパッドを開発していた小さな会社を買収しました。この会社が開発していた写真などを2本の指で拡大縮小ができるマルチタッチの技術がiPodのホイールに代わる優れたポインティングデバイスになるとジョブズは考えました。
ジョブズは、オーディオプレーヤーのiPodに携帯電話やパソコンの機能を組み込んで、指によるユーザーインターフェースで操作できる携帯情報端末のアイディアを思いつき、極秘で開発を進めました。
illustrated by Takao Hirose
2007年に電話機、オーディオプレーヤ、ビデオカメラ、ブラウザ、メール、マップソフト、GPSなどパソコンでできる、ほとんどの機能を取り込んだiPhoneを製品化しました。キーボードもマウスもなく、無駄なものを全てそぎ落としたシンプルなiPhoneは、ジョブズが好んだ禅寺の日本庭園を彷彿とさせるものでした。ジョブズが初期のMacintoshでワンボタンマウスにこだわったように、iPhoneを片手で操作できる大きさにこだわりました。
iPhoneはユーザーの心を捉え、一気に携帯電話の市場を独占しました。2008年には、GoogleがAndroidというOSを開発して、それを搭載したiPhoneと同様の機能を持ったスマートフォーンが市場に投入されると爆発的に世界中に広まりました。今では、年間で10億台以上が出荷される大ヒット商品になりました。
ジョブズはiPhonの最初のプレゼンテーションで「アップルが電話を再発明する」と紹介しました。もはやスマートフォーンは、携帯電話の枠を越えてネット社会で生活するために無くてはならない最強のコミュニケーションツールとなりました。
初代 iPhone 2007年
誰でも使える知の自転車の実現
ジョブズは、コンピューターを知の自転車「Bicycle for the Mind」と常々言っていました。
「自転車を使えば、人の力だけで徒歩よりはるかに遠くまで移動できる。自転車は身体能力を伸ばす道具だ。コンピューターは知性にとっての自転車すなわち知的能力を拡張するための道具である」
illustrated by Takao Hirose(copy of the real thing in 1984)
また、専門家でなく普通の人のためのコンピューター「The computer for the rest of us」というコピーもアップルを創業した当初から使っていました。iPhoneは、ジョブズが目指していたパソコンを諦めていた普通の人たちのコンピューターになりました。
世界を変えたiPhoneを送り出したスティーブ・ジョブズでしたが、4年後の2011年に「膵臓がん」で、多くの人に惜しまれつつ、この世を去りました。享年、56歳でした。
オバマ元大統領がこんな追悼文を書いています。
「スティーブは最も素晴らしいアメリカの革新者の1人でした。物事を違う風に考える勇敢さ、世界を変えることができると信じる大胆さ、そして、それを実行できる才能を持った稀有な人でした」
アラン・ケイの夢が現実に
今、ほとんどの人がスマートフォンを持ち、リビングルームのテレビの隣にタブレットを置いてある家庭も珍しくなくなりました。パソコンが使えないオジイちゃんやオバアちゃんがタブレットでニュースや新聞を読むことが出来ます。欲しい商品が見つかれば、その場で注文することもできます。子どもたちがゲームで遊べて遠隔授業を受けることができます。もちろん手紙の読み書きができて、音楽も聴けて映画も観ることができます。アラン・ケイが50年前にスケッチに描いて予測した未来に私たちは生きているのです。
「未来を予測する最も確実な方法は、自分たちで未来を作ってしまうことなんだ。アラン・ケイ」
illustrated by Takao Hirose(copy of the real thing in 1972)