【第1回】毛利悠子|ノイズと即興と電気とアート
日本にはなかなか浸透しない現代美術の世界で、30代の妙齢にしてとっくに世界に羽ばたき、台湾のギャラリーに所属し、欧米の名うてのキュレーターたちと渡り合い、その作品に触れる人々を唸らせ続けているアーティストだ。
毛利を語る上で重要な「ノイズ」と「即興」とは何か、馴染みない方々への説明はするほどに無粋になってしまうかもしれない。「作品のインフラ」と位置付ける電気を多用しながら、感電も日常茶飯事という彼女が制作の根底に持っているもの。
坂本龍一氏、大友良英氏が「刺激を受ける」と言って憚らず、文化庁の芸術選奨(平成28年度)を橋爪功氏、庵野秀明氏、宮藤官九郎氏、秋本治氏などと並んでサラッととってしまう本人に、話を聞いた。
9月にフランスで「リヨン・ビエンナーレ2017」、その後に同じくフランスのポンピドゥー・センター・メスで展覧会があって。しかも、偶然なんですけど、メスの館長さんが今回の「リヨン・ビエンナーレ」のゲスト・キュレーターだったりして、2つの展覧会には妙に繋がりがあるんです。メスの展覧会は1970年以降の日本人作家を総ざらいするグループ展で、杉本博司さんやChim↑Pomなんかも出品するみたい。
例えば、すべてデジタルで構築した装置はエラーが起こる確率が少ないけれど、そうはせずに、わざとエラーが起こる可能性を残しておく。回路をつくる時には自然光で変化するセンサーを噛ませるとか、電流を流すスイッチにコンパス(方位磁石)の針を使うとか。コンパスの針は面白くて、地球の磁力でももちろん針が揺れるけれど、建物の床がクッションフロアか鉄筋かによっても動きが変わってくる。
つまり、作品が展示される環境によって、スイッチの動きが変化するわけ。そういった偶然性の要素を作品に取り入れて、電気を使って増幅させることで、作品に予測できない表情が出てくるんです。
コンパスの針が揺れている様子 鑑賞している来場者
Calls, 2016 《コールズ》2016 Kochi-Muziris Biennale 2016, photo by Kochi-Muziris Biennale foundation
外的要因をインスタレーションにどんどん取り組むことで、結果的に、無機物が有機的に見えてくる瞬間が訪れる。「動きが予測できないものを使って環境に寄り添うこと」には、昔から関心がありました。
イクエ・モリさんがドラムをドカドカ叩いているそのサウンドが、「バンドやりたいけど練習しなきゃ、、」とか「もっと思想を深めないと、、」とか言いがちな年頃の悩みを全部を壊してくれて、まずは「とにかくやればいい!」みたいな。
実験的な表現それ自体からも影響を受けたけれど、コンテクストの勉強とかテクニックの積み立てを順序だててしなければ表現なんてできない──と勝手に思い込んでたところをぶっ壊してくれて、いろいろなことを端折って勇気を与えられた感じは、高校生の時に明らかにありました。
ということで、「展覧会やるから来て」というより「ライブやるから来て」みたいなノリの方が表現として単純に実感があって、即興ハードコアバンドみたいなのを結成して、にせんねんもんだいやグループイノウなんかと対バンしたりしてました。バンド名は秘密ですけど、、(笑)。
それが、大学に入って「サウンドアート」というジャンルを知って、「私もやってみたい」って思ってました。
2015年、半年間ほどニューヨークに滞在する機会があって。ニューヨークなどというクリエイションのメッカに半年もいたら、「あなたはどういう作品をつくってるの?」と毎日のように聞かれるわけです。だけど、ちゃんと自分がつくってきたことを証明する作品が、何も残ってない!
これまでほとんどすべて、実験的なプロトタイプをつくっては、つくりっぱなしにして、結局つくり方すら忘れちゃって再現不可能、みたいなことをし続けてきた中で(笑)、ちゃんと残る抽象表現をつくりたいと思うようになった、という。
あと、電気が通ってない作品をつくる時も、インスピレーションの源はモノの動きだったり、時間の流れだったりするのだけれど、電気はそういう要素とも密接に関わっている印象がある。
あとはソーラーパネルを使うこともあります。ソーラーをセンサー的に使って、自然光だけでなくて、自分で出した光をソーラーがもう一度吸収して、それらをミックスすることで出てくる表情を狙ったり、、と説明してももうワケわからないでしょう?(笑)。観てもらえれば一発で理解されるはずなんですが。
そうやっていろいろなエネルギーが数珠つなぎに影響していって、ちょっとフィッシュリ・アンド・ヴァイスの「事の次第」のようになってくることもある。そういう偶然性の積み重ねによって、仮想生態系というか、箱庭的な環境とでも呼べるものができあがってくるんです。
次回へ続く