【第3回】毛利悠子|ノイズと即興と電気とアート
札幌国際芸術祭の設営がようやく終わり、ホッとして、スタッフの皆さんとランチ
坂本龍一、大友良英両氏と文化庁の芸術選奨から同時に認められる、表現者として深い懐。それでいて、マルセル・デュシャンからイサム・ノグチの系譜までを自然に乗りこなす、柔軟な説得力。
私たちは、毛利悠子がしなやかに示す近い未来の「プロトタイプ」を受け止め、社会の何を、また生活の何を省みることができるのか。そして、それを反映させた先の社会には、何が待っているのか。
言語化することの意味の有無はさておき、明日以降、自らの具体的行動のきっかけが詰まったインタビュー、最終回です。
個人的なモチベーションとしては「景色のようなものをつくりたい」というのに近いものがあるのかもしれない。いろいろなところで見てきたものからインスピレーションをもらうわけです。
例えば、震災後しばらくして訪れた石巻の海岸では、震災で地盤が5メートルほど下がってしまったということで、新たに土を盛っていた。あるいは、2012年に訪れたのですが、札幌にモエレ沼公園という大きな公園があります。そこはもともとゴミの埋立場だったのを、イサム・ノグチが「人間が傷つけた土地をアートで再生する。それは僕の仕事です」と言って、結果的に人工の山やガラスのピラミッドが建つ彫刻空間になった。
で、こういった光景とか、先ほどお話しした青森のゴミの山、あるいは東京にあるゴミ処理場の大草原なんかもみんな、何となく見た感じ、盛り土の角度が45度くらいで同じなんです。「これ、何なんだろう?」って思ってたら、それはショベルカーがギリギリ登れる角度だった。あ、これってつまり、人工的な台地の象徴なんだってことにハタと気づいたんです。
水漏れを日用品をつかって即興的になおしていき、循環させる作品 《モレモレ:与えられた落水 #4-6》
2017White Rainbow, London, 2017. Photo by Damian Griffiths.
あるサイトで研究者の方が書かれたまとめでは、プロトタイプとは「作品の実現における失敗もまた、創造プロセスの構成的次元とみなされる。すなわちそこでは、失敗自体が作品のひとつの「デモンストレーション」となっている」「「プロトタイプとしての作品」は、プロセスの「中断」(coupe)とみなされる。そこで問題となるのは、プロセスを休止することであり、オブジェという形でプロジェクトに(その都度)何らかの一貫性を与えることである」なんてあって、あらーこれって私のことやんか~、なんて(笑)。
実際、私がやっているアートはプロジェクト形態ではあるけれど、主眼は、そのプロジェクトに何通りも潜在的に存在している作品形態の原型を、その場で制作することにあるんです。
あと、これはいつも作品をつくりながら考えているのだけれど、正しいかどうかは別として、それをつくる理由がめっちゃたくさんミルフィーユ状になっていて、カットしたときに見えたケーキの断面が自分の作品だと思っています。
高橋コレクション・マインドフルネス2017@山形美術館、札幌芸術祭2017、リヨン・ビエンナーレ2017@仏・リヨン市といったグループ展参加、個展、作品集『Yuko Mohri』(英・White Rainbow、デザイン=シュテフィ・オラズィ)の日本語訳リーフレット刊行等々を控える毛利悠子の近況は、コチラ。
http://mohrizm.net