【前編】はるな愛さん、タドれるチョコレートの1日アンバサダーご就任!
読みもの|3.9 Thu

  社会問題のアップデートを標榜し、「みんな電力」や「みんなエアー」など、ブロックチェーンシステムを駆使した「顔の見える」関係で事業を展開するUPDATER。同社が初めて、NGOのACE、カカオ商社の立花商店、チョコレートメーカーのクラウン製菓と協業し、チョコレートをつくった。
▼タドれるチョコレート
https://tadori.jp/product/tadori_original_chocolate/

 できあがったのは、「フィリピンの希少カカオそだてるチョコ」「ガーナの児童労働なくせるチョコ」「ベネズエラの原住民女性まもれるチョコ」と名付けられた3種類のチョコ。パッケージデザインには、埼玉を拠点に多くの才能溢れる、障害を持つアーティストを輩出する工房集より、高谷こずえさんの作品を起用し、それも好評だ。

 そして、そんなチョコレートの1日アンバサダーに就任されたのは、パラリンピック開会式に登場したインパクトも記憶新しい、はるな愛さん。はるなさんが心に抱く暖かな想いと、その想いに忠実な取り組みを知れば、これほどマッチする人選はない。

 アンバサダー就任を記念してUPDATERオフィスを訪問くださったはるなさんに、実はまだ社会にあまり知られていない、でも共有したい、続けられている取り組みと、その源泉をたどった。

ー今回、社会課題を解決するチョコレートのアンバサダーに就任いただきました。

はるな 私本当に、例えばカカオのために児童労働をさせられてるなんて、知らなくて恥ずかしかったです。今回のこのチョコレートを知って、生産背景にいろいろな問題があることを知れたので、本当に意味のあるチョコレートだと思いました。

 バレンタインの日にギフトで渡すだけじゃなくて、そのことをもっと多くの人に知ってもらえるすごいチョコレートに巡り合えて、アンバサダーにならせていただいて幸せという気持ちと、同時に責任の重さも感じています。

 これで、普段食べてるチョコレートに対する考え方もすごく変わります。世界の貧困と自分の生活を比べてもピンとこないかもしれませんが、同じ地球人としてそこも無責任ではいられないことかなと思います。でも、この日本にも貧困は実はたくさんあって、そこに目を向けて欲しい、目を向けるきっかけになってくれたらと思います。

ーバレンタインに、どんなものを相手にあげたいと思いますか?

はるな 今まで、私の場合は見た目とか、ギフトのかわいらしさ、食べた時に驚いてくれる味なんかが基準でした。でもコロナ禍になり、心を豊かにしてくれるお金の使い方が、変わってきた気がします。

 自分が使うお金を、少しでも人のためになるように、「買う物を選ぶことによって変えられるんだよ」ということを知ってもらいたいと思います。今回は、自分自身がそういう買い物の仕方を考える、ちょっと大人な時間になりました。

ー食べてみましたか?

はるな とても美味しかったです。カカオの甘みだけじゃなくて、華やかさの中に酸味や苦味もあり、バランスのとれた香りが一気に口に広がりました。ストレートにチョコの香りが感じられるよう、なるべくシンプルにつくられているんだなと感じました。

ー社会貢献がテーマのチョコだと、味に期待しないところがあるんですが、ちゃんと美味しかった。

はるな 皆さんに食べて欲しいのは、私も好きでいろいろなチョコをよく食べるんですが、今回は味わったことのない、シンプルな華やかさがあって、それはミルクとかバターではない、ストレートな美味しさが詰まった味でした。

 フィリピン、ベネズエラ、ガーナとあって、もちろん全部美味しかったですが、私はガーナが好みでした。

ー「児童労働をなくすチョコ」というテーマと、はるなさんがやられている子ども食堂は、繋がっているように感じます。

はるな 「子どもを預かる」ということには、すごい責任が生まれます。それまでやったことのないことで、しかも「食べる」というのはダイレクトに健康に繋がります。スタッフともすごくいろいろ協議して、でもみんな私の「やってみたい」という気持ちを汲んでくれて、実現できました。

 今、子ども食堂をやられている方々は、食云々のことも超えて「子ども食堂という居場所があることの大事さ」をシンプルに理解されて、それぞれ地方でもコロナ対策をとられた上で、やられています。そういう場所がなくなることで、本当に大変になっちゃう子どもがいることをわかってらっしゃる方々がいてくれるわけです。

 そもそもこれは、自分たちの力だけで持続させるのが難しいこと。皆さんのおかげで、より簡単で気楽に、そして柔軟にできる人たちを交えて、もちろん子どもの安全はしっかりしながら、「これはできること」という風に私にも思えたんです。

ー子ども食堂をはじめられたきっかけは、どのようなことでしたか。

はるな 私は長く飲食店をやってきて、ある時ラジオの番組で、貧困についてお詳しい湯浅誠さんがゲストでいらっしゃったんです。その時に「見えない貧困がすごく多い」というお話を聞いて、もうその日に「何かやりたいです」ってお話をしたらすぐ繋いでくださって、それで自分のお店ではじめました。もう、4年くらい前だったかと思います。

ー社会的弱者に寄り添われる姿勢は、どこからきているのでしょう。

はるな やっぱり自分が小さい時に自分らしくいられなかったり、家も貧乏だった時があって、けっこう孤独な子どもだったんです。孤独で不安で「自分は大きくなったら、どうやって生きていくんだろう」「社会と交わえるのか」とか、そういったことで悩んでいたタイプでした。

 でも、芸能や歌手が夢で、夢を見て東京に出てきて、まだまだ仕事もそんなにない頃に三軒茶屋に小さなお店を出して生計を立てて、「やっとテレビに出れられる」というタイミングがきました。夢が叶って、その時に、それまで「もう死のう」とか、イジめられたり、辛い想いで「生きてる意味ないな」とか、何度も思ったことが思い出されたんです。

 そんな自分がこんなに仕事をいただけて、「必要とされている」という喜びを感じて、忙しい時は本当に3日に1時間くらいの睡眠で、新幹線に乗った時にフト思うことがありました。トンネルに入って外が真っ暗になった時、窓が鏡みたいに、自分が映りますよね。その時に、「え!これが本当に、あの時死のうと思ったケンちゃん?」「本当に、よかったね~」って、何度も自分に話しかけました。

 そうしてテレビのお仕事をさせていただいて、2008年にエアあややでブレイクして、07年に4位だったミスインターナショナルクイーンという世界大会で、09年には優勝させていただいて。その時に、ジェンダーの問題は国によって扱いの差がすごく大きいことを知りました。

 2010年には24時間マラソンで出て、そういえば私自身が24時間テレビで障害のある方々のことを見て知って一人で泣いていたことを思い出して。そのランナーに選ばれた喜びもありながら、たくさんの応援メールを皆さんからいただきました。「日本中の人々が応援してくれてる」ということが嬉しくて、幸せで。

 そうしたら2011年に、3.11がありました。

 私はその時、お仕事も全部ストップして、それまでは夢の場所でお仕事できていた現実から、埋まっていたスケジュールがどんどんキャンセルになっていく無力感を感じ、その時に「でも、私にはやることがある」って思ったんです。それで事務所にも言わず、震災後1週間くらいで物資を持って現地に入りました。

 そうしたら避難所ではじめて、あるおばちゃんに「あいちゃん、、私はじめて泣くね」って、泣かれたんです。避難所で、避難されている方もその方々を支えている側も被災されていて、どこにも行き場がない中で、泣き崩れられたんです。

 やっぱり行ってみたら、そこにはナマの皆さんの声があって。そこで「『この方たちがテレビを観てくださる皆さんなんだ』ってことを絶対忘れちゃいけない」と思ったんです。でも、東京に帰ったら、そこには温度差がありました。

ー東北のことを気にしている人たちが少なかった。

はるな もう全然違って、モノに溢れてて、食べ物に溢れてて。

 私は東日本の地震だけじゃなくて、西日本の豪雨や九州で地震があれば被災地には全部行って、その後も仮設や復興住宅に、毎月お休みの1日は行くようにしてきました。そしてその先で、湯浅さんにお会いして話を伺ったんです。

 私は子どもの頃から本当に皆さんに助けられて、応援してくださったからこそ今の私があります。だから「私にはすることが山ほどある」と思っていて、それが子ども食堂ということに繋がっていったんです。

ー小さい頃からの積み重ね、3.11や各地の自然災害、しかもそういった現地での支援の体験が、必然的に子ども食堂というものに繋がった。

はるな 東京に出てきてからは、自分も無我夢中で大変で、人のことを見られる余裕もありませんでした。ですから、今思うと、そういったタイミングがすべてだったのかなと思います。

ー利用されるお子さんの反応はいかがですか?

はるな すごく喜んでくれています。ウチはお好みのソースも生地も関西からとっているので、なかなか普通の家では食べたことない味なんだと思います。それをコースで出すんですが、子どもたちからもすごいお礼をもらいました。

 あとは、「子ども食堂をやる」って言ったら三軒茶屋のボードゲーム専門店の方々が「ウチらも何か手伝います」とか、みんなが地域で動き出して、お店にとっても繋がれてよかったなと思いました。

 はじめはすごく、「大丈夫かな」という不安もありました。でも、子ども食堂を手伝ってくれる大人の皆さんが来てくれて、結果的にそこが集いの場所になってくれたんです。

ー子ども食堂は、そこに行くことが「あの家貧乏なんだ」とわかってしまうという理由で、お知らせの仕方や来てもらうことが難しいという話を聞いたことがあります。

はるな 最初は、特別な施設の子どもたちが対象でした。その後は学校にお知らせを貼り出して、それこそ誰でも、お金のある家の子どもも、大人だって来ていい場所にしたんです。

 ウチは親がずっと飲食店をやっていました。でも貧乏な時、ウチのすき焼きの味ってツナ缶と白菜のイメージなんです。お肉がなくて、朝もそれが出て、お弁当を開けたらまたそれが入ってたことがありました。だからそれは「大変だった時期の味」なんですが、豊かにいろいろ考えてくれたんだなと思います。

 今はその、大人の人たちがいろいろ来てくれて、お金の有る無し関係なく子どもが集まってくれた時に、私がもっと子どもの時に大人のサンプルが見えたり、繋がりがあったら「もっと生きやすい場所があったのかな」ということを思うんです。

ー小さい頃から、もっと多様な生き方、有り様が見えていたらよかった。

はるな 実家のスナックのお客さんが「たぶん、ケンちゃんと似た様な人たちがいるお店あるから」と、連れて行ってくれたのがニューハーフのお店だったんです。それだってその大人の人が、私のことを気づいてくれたからのことでした。

 そこで私はおネエさんと意気投合して「あんた、明日から楽屋来なさい!」って言ってもらえたのが14歳の時でした。私は不思議とそこから自信がついて、イジめられなくなりました。だからもっと大人と出会って、喋って、もっと情報があったら、自分自身の気づきももっと早かったんじゃないかなと思うんです。

 「子ども食堂」という名前だけど、貧困の子どもだけじゃなくて、「みんなが集まれる場所になってくれたら」と思っています。

ーどんな人でも分け隔てなく、来てくれさえすれば賄う姿勢でやられている。

はるな 正直、食材は持ち出しです。でも「お米を使ってください」と送ってくださる方もいらっしゃって、本当に感謝しています。あとは以前楽屋で、東野幸治さんが「子ども食堂の記事読んだよ!」って、その場で財布から3万円くれて「何かやって!」というので、「東野幸治さんデー」というのをやったんです。

 そうやって、皆さんに本当に広がっていってるというか、自分が子ども食堂をするのは本当に大変で、でも私も一人ではなくて、コロナ禍前は地域のボランティアの方々に手伝っていただけました。だから、「それぞれのできることが集まっていく場所」が子ども食堂ということで、やりたいと思っている人も一度覗いていただいて、協力してもらえたらいいですよね。

撮影:西岡浩記

後編に続く

関連記事はコチラ

SHARE: LINE Facebook
URL
URLをコピーしました

記事を作った人たち

タドリスト
平井有太
エネルギーのポータルサイト「ENECT」編集長。1975年東京生、School of Visual Arts卒。96〜01年NY在住、2012〜15年福島市在住。家事と生活の現場から見えるSDGs実践家。あらゆる生命を軸に社会を促す「BIOCRACY(ビオクラシー)」提唱。著書に『虚人と巨人』(辰巳出版)など