Photo : Naoko Maeda
ブレとかボケ、経年劣化や摩耗を取り入れ、「サウンドアート」や「キネティックアート」として自身の作品をとりあえず納得してもらいつつ、実は世の中の生産と消費、つまりは「循環」という壮大なテーマを込めた制作を続ける毛利悠子。
私たちの日々の生活は、世界レベルで今、どのようなフェーズにあるのか。その生活から日々生み出される膨大な量のゴミは、いったいどこでどのように、何にかたちを変えているのか。そして、そのすべてをインフラとして循環させる、エネルギーの担う役割とは。
もうすぐそこにある未来を感じさせる単独インタビュー、全3回の第2回目、是非。
ー電気でも、社会でも「循環」は大きなテーマですが、音の世界では
ノイズだった毛利さんがどこでそこに惹かれるようになったんでしょう?
毛利 実は、先ほど言っていたノイズというのは、「フィードバック」のことで、そもそもはフィードバックに興味があったんです。アンプを介してスピーカーとマイクが近づくことで出てくる「ピーッ」という音とか。フィードバックというのはつまりはエネルギーが循環して増幅していくことなわけですが、学生時代から、それって超面白いと思っていて。つまり、ノイズも決して出鱈目なわけではなくて、すべてにちゃんと理由や仕組みがあるわけです。
アルヴィン・ルシェという現代作曲家の作品にフィードバックを使ったものがあるように、この現象はコンセプチュアルな作品にも応用できる。そもそも、そのほうがつくっていて納得がいくし。だから、自分の作品も適当に動かしてるわけではありません。デタラメに音を出す音楽も大好きだけど、そのシステムや音色をつくりあげている“そうなった理由”に興味があるんです。
ーそうやってつくられたものを、受け手に、どう見て感じて、何をして欲しい?
毛利 伝えたいことというか、作品にとって重要な状態は「あやふやな状態をキープする」ということかもしれません。言い切らず、グレイでボヤーッとした状態をアートは具体的につくることができる。その状態は、実はとても豊かな状況だと思っていて、理想はその境地を維持することだったりします。他の人の作品を観ていても、そういう部分に惹かれます。
ー言い切っていない、委ねられている状態。
毛利 抽象表現だからとかコンセプチュアルだからとかはあまり関係なくて、選択肢がたくさんあって、観る人の発想が豊かに出てくる状態の塩梅がいいと考えているのかもしれない。予想もしていなかった明後日の方向のフィードバックがある状態というか。私が具体的に表現したいのは、経年劣化や磨耗、ブレとかボケといった状態がまずあって、そういった状態をつくりだす環境をインストールしているのではないかな、と。
ー国内外での反応は違いますか?
毛利 アジアはそもそも共通項があるというか、なんとなくで通じ合ってしまえるところがあると思う。アメリカでは、もっとはっきりとした表現が求められるというか……個展もしたんだけれど、リーチした感じがまだ全然ない(笑)。ヨーロッパは、いま言ったようなことを哲学とか思想として見てくれる風潮があるような気が割とします。勝手に解釈して、思いもよらなかった批評をしてくれたりもして、そこが面白さでもある。
実際、今年の「リヨン・ビエンナーレ」に誘われたのにも、そういう側面があって。他の現代アーティストに漏れず、私も
マルセル・デュシャンという存在に魅力を感じる者の一人なのですが、彼をモチーフにした作品がひとつだけあるんです。きっかけは、地下鉄駅構内の水漏れへの対処のヴァリエーションをフィールドワークした写真シリーズ「モレモレ」をスカルプチャーとして構成しなおそうと考えていて。水漏れを人工的に起こしてそれに対処することで結果的に立体作品ができあがる、というアイデアが浮かんだ際に、「自分に“水の落下”が与えられた」ことの一点をもってデュシャンに結びつけたんです(註=デュシャンの遺作のタイトル《与えられたとせよ 1. 水の落下、2. 照明用ガス》を文字っている)。で、作品のフレームにデュシャンの《大ガラス》を引用して、漏れた水がフレーム内で循環する作品をつくりました。で、さらにそこに、自転車の車輪やシャベルといったデュシャンおなじみのレディメイドのキャラクターを登場させて水漏れを対処してスカプルチャーを組み立てたんです。リヨンのキュレーターにこの作品の説明を求められた際にこういった経緯を説明したら、「え、そんなふうにデュシャンを使っちゃっていいの?」と困惑してた(笑)。ところが数か月後に連絡があって、「そういうテーマでデュシャンを扱いたいから」ということで、リヨンにその作品が行くことになった。
ーしっかり伝わっていた。
毛利 というより、新しいジェネレーションのデュシャン解釈みたいなことをテーマにしたかったようで、私がそこにスポッと嵌まったかたちです。
毛利 そう、全世界でこの世界一有名な便器の100周年を祝う展覧会が開かれているようです。日本だと京都国立近代美術館に《泉》のレプリカが収蔵されていて(世界で、たしか五つあるなかのひとつという、レプリカとは言え、とても貴重なモノです)、やはり100周年記念展が今年から来年にかけて5期に分けて開かれるのですが、さっき言ったような作品をつくってしまったからか、その5期目のキュレーションを畏れ多くも私が担当することになりました。で、伝記とか関連資料を読み直したりしているところですが、デュシャンはインフラストラクチャーというか、「それに纏わるエトセトラ」みたいなことに関心があるように感じます。
ー社会を循環させているインフラへの興味が、デュシャンと毛利さんの共通項、、
毛利 《アーバン・マイニング》という、ゴミや廃材を積極的に素材に使用した作品シリーズがあります。東京電力福島第一原子力発電所の事故がどうしようもなくなって、何を信じればいいのか、どう生活すればいいのかと絶望的になった時がありました。その時、偶然にも、青森の山の中の廃品回収の現場、東京都のゴミ集積場、福島の
浪江町を訪れる機会がありました。
青森の廃品回収現場は、アート・イン・レジデンスの最中に山にドライブに行った際に見たのですが、右の風景はいわゆる美しい山脈で、一方、左の山の広い部分がタイヤや鉄の集積場になっていて、自然を見にきたにもかかわらず、後者のほうがやけに印象深かったんです。
ちょっと前の話ですが、2012年に開かれたベルリンの展覧会で、ナイジェリア人パーカッショニストが、壊れたコンピューターの金属や基盤部分を楽器として使っていたのを見たんです。よく考えてみれば、
カリンバも空き缶を使っているし、その進化版なのかなと思っていたところ、実はその壊れたコンピュータはベルリンからナイジェリアに渡ったものだった。ヨーロッパで捨てられた廃品がアフリカに渡り、人件費の安いナイジェリアで人の手で使える部分と使えない部分に仕分けをされていたんです。レアメタルや銅を分けることで大きなビジネスになっているらしいのだけど、わたしビックリして。
ー青森で見たことが、国境を越えて行われていた。
毛利 その時に「都市鉱山(アーバンマイン)」という言葉に出会いました。一度流通したものが、廃品になったあとで資源として再度流通してゆく。まあ石油は輸入しているわけだけど、資源って基本的には山川草木から採れるものをリソースとしていたイメージが抜きがたくあるでしょう? だけど、今はそれを遥かに超えた、違う次元で国境を越えて資源が流通している。それは正直、予想もしていなかったことでした。
ー昔の炭鉱はもちろん政治的だし経済だけど構造はシンプルで、その「都市鉱山」は、ややこしく絡み合っている。
毛利 国境も超えて複雑化しているんですね。エネルギーの動き方が複雑になっているとも言える。それをふまえて、東京の集積場にも行ってみようと思いたちました。
コチ=ムジリス・ビエンナーレでのインスタレーションビュー
YUKO MOHRI, Calls, 2016 毛利悠子,《コールズ》2016
Kochi-Muziris Biennale 2016
東京の集積場は臭くてハエとか害虫がたくさん飛んでいるイメージだったのですが、実際はとても整頓されていた。無臭で清潔感もあって、ゴミが集積されている土地も見学もできました。そこは一見広大な敷地の空き地なのだけれども、まだ住所も持っていない土地なんです。さまざまな方法でゴミを仕分けして、燃やせるゴミは粉になるし、燃やせないものからも鉄やら使えそうな資源を採集し結果的に年間5、6億円分くらいお金をつくれるんだそうです。さらには、ゴミを燃やす熱で温水プールとか、植物園を運営したり、発電までしていた。つまりさまざまなサイクルで、ゴミに纏わるエネルギーの循環をしていたんです。そして本当のカスになったものが行き着く先が、住所のない広大な空き地だった。そこには、たくさん種も飛んでくるので草原になっているんです。でも木を植えたり、建物を建てるほどの強度はないので、大草原というイメージでした。なんというか、異様な光景なんです。
もちろん実際には、そこで処理できない「もっとひどいゴミ」は、さっきのナイジェリアの話のように、東京から遠く離れた場所に送られて、処理されているのかどうかわからないまま放置されていたりするのかもしれない。だから、ここにあるのは東京都がアピールしている一種の夢物語というか、きれい事のプレゼンテーションでしかない。だけれど、そこには施政者にもまだ気づいていない「未来の自然」があるようにも見えたんです。そこで、エネルギーとか循環といったテーマでリサーチ兼作品にできないかなというシリーズが「アーバン・マイニング」です。都市鉱山(アーバン・マイン)を使って、人間を通して都市自体が見た夢を分析(マイニング)する、というわけです。
街路灯や缶を使った舞台美術を制作 《アーバン・マイニング -「春の祭典」のための》
2014 Festival/Tokyo東京芸術劇場, Photo by Yota Kataoka
空き缶のブロックをつかった作品 《アーバン・マイニング – 多島海》
2015 SPIRAL/Wacoal Art Center, Photo:Nobutada Omote
ー循環とは人間の自然な営みなのか、意識して促進させないといけないのか。
毛利 アートで資源を循環をさせたいとかいうことは全く考えてませんね。でも、その一要素をとりあげることはできるかもとは、思っています。
たとえば通常、空き缶ゴミはすぐ溶かしちゃうんです。コンプレッサーで潰してでかいブロック状にして、積み上げて。その塊が毎日どんどん出荷され、溶かされていく。その現場も見に行ったのですが、ものすごいスピードの循環でした。
東京芸術劇場で舞台美術をつくる際、そのブロックを20個くらい借りたんです。そのままでは使えないので、洗浄して、日干しして、水分をすべてとるためにペットシートにくるんで2週間ほど保管したんだけど、いざ搬入してその梱包を外した瞬間、ものすごい数のハエが舞いあがって「うわぁ~」ってみんなが悲鳴を上げた(笑)。慌てて殺虫剤て処置したのですが、よく考えると、缶のブロックを保管してなければこのハエは生まれなかった。そう思うとなんだか、そのハエにシンパシーを感じてしまって。シンパシー・フォー・ザ・フライ(笑)。私も偶然、人間として自然の循環のなかに存在しているわけですが、エネルギーの総量的にはハエと同じくらいなんじゃないかと感じたんです。
ー見るもの、聞くもの、目の前で起こることを、とても素直に受け止めている?
毛利 そんなふうに見えますか?(笑) でも、インスピレーションというか、見てきた景色を抽象化しつつ、作品へと具体的に繋げていっているのかもしれません。
次回へ続く
(取材:平井有太)
2017.06.08 tue.