ITはかせMr. Hiroseのデジタルをタドる!Vol.6「万人が使えるパソコンの登場」
初期のパソコンは、操作が難しく普通の人が使いこなせるものではありませんでした。
▼前回のお話▼
その後、パソコンは、より使いやすく洗練されたものになっていきました。今回はパソコンがMacintoshやWindowsに進化していくお話をしたいと思います。
目次
■ IBM-PC互換機ビジネスが始まる
巨人IBMが1981年に開発したパソコンIBM-PCは、ネームバリュー、オフィスにマッチしたデザイン、安定した性能が受け入れられ、あっという間にパソコン市場を席巻しました。「ようこそ、IBM殿」と自信満々で迎えたアップルも後退を余儀なくされました。IBM-PCに使われている部品は、どこからでも手に入れることができ、システムの仕様も公開されていましたの で、この規格に沿ったパソコンの製造販売をする新規参入企業が、続々と現れ、パソコンの世界に新しくIBM-PC互換機ビジネスが形成されました。
このビジネスモデルは、Androidベースのスマホでも採用されています。ソニー、シャープ、サムスンなどのメーカーが作っているNTTドコモ仕様のスマホは、姿かたちは違いますが同じように動作し、同様なサービスを受けることができます。 NTTドコモは、スマホ単体の販売からの利益は僅かでも、何千万台というスマホが通信回線を使用するので通信料で儲けを出すことができるのです。
しかし、IBMは、互換機ビジネスの中に儲かる仕組みを組み込むことが出来なかったのです。儲かったのは、心臓部に使われているCPUを製造しているインテルとオペレーティングシステムの販売の権利を持っているマイクロソフトだけでした。中国や台湾の安価なIBM-PC互換機が市場に出回るとIBMは太刀打ちできなくなりました。後に、IBMは中国のパソコンメーカーのLenovoにパソコン部門を売却することになります。
■ 使いにくいパソコン
普及を始めたMS-DOSを搭載したパソコンは、技術者やゲームマニアは歓迎しましたが、これからパソコンを始めようというデジタルに縁のない多くの人たちにとっては悪夢のようなコンピューターでした。電源を入れると、黒い画面に意味の分からない呪文のような文字が点滅し、キーボー ドから打ち込まれる命令をひたすら待っているという不親切なものでした。パソコンを動かす命令を知らなければ、ファイルの中を見たり書類を印刷したりという簡単なこともできませんでした。文字を打ち込んで操作するので、キャラクタベース・ユーザ・インターフェース(CUI)と呼ばれていました。その頃から難しいパソコンの操作を解説する本が書店で売られるようになりました。
■ ポインティングデバイス「マウス」の発明
一方、大学や研究機関などのアカデミックの世界では使いやすいコンピュータの実現を目指して、ユーザ・ インターフェースの研究が盛んに行われていました。当時は東西冷戦の最中であり、潤沢な国家予算を持っていた米国・国防総省の資金が使われていました。第2次世界大戦でアメリカ海軍のレーダー技術者であったダグラス・エンゲルバートは「コンピュータは、会社や政府の仕事を助ける道具ではなく、個人の仕事を助ける道具であるべきだ」と考えました。
エンゲルバートは後のインターネットで使われているリンクの概念や今では当たり前になっている一つの画面に複数枚のウィンドウを重ね合わせて表示できるオーバーラップウィンドウなどの画期的な発明を行いました。その中でも現在のパソコンに大きな影響を及ぼしたのが、絵(アイコン)をクリックして操作をするというグラフィカル・ユーザ・インターフェース(GUI)のアイデアでした。
当時のパソコンは、QWERTYキーボードが唯一の入力手段でした。QWERTYとはキーボードの左上のアルファベットを順番に読んだ文字列のことで、このキーボードは機械式のタイプライターの時代から使われていました。印字ヘッドの絡み合いを防ぐために、わざわざ打ちにくい配列にしたものと言われています。今まで沢山の人がこのキーボードの改良を試みましたが、コンピュータ業界はQWERTYキーボードを捨て去ることができず、現在でもこのキーボードが使われています。ポインタを移動する時は、矢印のマークのカーソルキーを操作する必要がありました。
エンゲルバートの研究は、この使いにくいQWERTYキーボードのカーソルキーの代わりになる入力装置を開発することでした。ポインティングデバイスとして1967年に発明されたのが、形がネズミに似ていたことから、後にマウスと呼ばれるようになる入力装置でした。本体を手に持って水平に移動させることで、2次元の移動距離をコンピュータへ伝えることが出来ました。手で画面上の書類を直接触るような操作環境が実現できたのです。エンゲルバートが発明した入力装置は、右手にマウス、左手にコード を入力する五つのキーで構成され、飛行機のコックピ ットの操縦管のように物々しいものでした。
■ パソコンの元祖 ALTO(アルト)
その頃、米ゼロックス社はコンピュータ技術の研究開発をするために、1970年にパロアルト研究所(Palo Alto Research Center: PARC)をシリコンバレーに開設しまし た。この研究所を設立した理由は、パソコンが普及するとディスプレイ上で処理が出来るようになるので紙に印刷しなくなりゼロックスのコピー機が売れなくなるのではないか、という危惧からでした。
この研究所には、世界中の一級のサイエンティストやエンジニアが集められました。その中に、パソコンの父と呼ばれているアラン・ケイというユニークな人物がいました。3歳で文字を読み始め、小学校入学までに200冊を超える本を読んでいたという早熟の天才は、パ ーソナルコンピュータという概念を最初に提唱しました。彼の研究の目的は、予備知識のない小さな子供たちでも使えるコンピュータを作ることでした。
「未来を予言する最も確かな方法は、自分で未来を 作ってしまうことだ」という考えをもつケイは、自らDynaBook(ダイナブック)と呼ばれる本のように使えるコンピュータの開発を始めました。当時の彼の研究論文に描かれたイラストは、現在のタブレットを彷彿させるものでした。
彼の研究の集大成がAltoと名づけられたコンピュータでした。Altoは、ビットマップディスプレイ、マウス、ウィンドウシステム、グラフィカル・ユーザ・インターフェース、イーサネット、オブジェクト志向など、現在、MacintoshやWindowsでは当たり前のように使われている技術をすでに装備していました。 文字のサイズ、 字形(フォント)なども自由に変えることができるだけでなくイラストや動画も表示できるビットマップディスプレイは、黒地に決まった文字しか表示できなかった今までのパソコンとは全く違ったものでした。Altoには、パソコンが企業の集計処理の用途だけでなく、雑誌やテレビに代わる新しいメディアになることを予感させるものがありました。
■ 伝説のデモンストレーション
AppleIIの成功で急成長していたアップルは、上場に際して多くの企業が資本参加を望んでいました。ゼロックス社も例外ではありませんでした。当時、アップルの会長だったジョブズは資本参加を承諾する代わり に、PARCの技術を知りたいと申し出ました。ゼロックス社は最先端の研究成果をデモで公開するという形で受け入れました。1979年、ジョブズは、後にMacintoshのQuickDrawという画像描画プログラムやHyperCardなどのアプリケーショ ンを開発するビル・アトキンソンらの技術者を引き連れてPARCを訪問しました。
そこで紹介されたのが、アラン・ケイが開発したAltoでした。AppleIIやIBM-PCというキャラクタベースのパソコンとは全く違うAltoに度胆を抜かれました。
パソコンのテキスト処理に不満を持っていたジョブズは、「テキストが1行ごとでなく、ドットごとに、紙に書かれた文字のようにスムースに画面を移動できたらステキなのだが・・・」と意地悪な質問をぶつけました。それを数秒で簡単にやってのけたのを見てジョブズは、「この会社は何でこんな凄いコ ンピュータを売り出さないんだ? 何が起きているんだ? わからん!」と叫びました。
このすばらしいAltoのグラフィカル・ユーザ・インターフェースを見て、アップ ルの技術者たちは、これからのコンピューターはこのようになると瞬時に理解しました。Altoのデモンストレーションは彼らの心に深く残りました。
アップルの技術者たちは、このAltoの操作性を取り込んで1983年に、Lisaというマウスやビットマップディスプレイを備えたGUIベースのパソコンを開発しました。しかし、IBM-PCの価格が1500ドル程度だったのに対し、1万ドルと高価だったため全く売れませんでした。そこで翌年の1984年に、もっと安価でコンパクトなMacintoshを発表しました。そのデビューは、米国で高い視聴率を誇るスーパーボールのテレビCMでした。ジョージ・ オーウェルの「1984年」を意識した独裁者ビッグ・ブラザーに管理される世界をランニング姿の女性がハンマーで破壊するという過激なストーリーでした。テロップには、
「アップルコンピュー タはMacintoshを発表します。このパソコンを見ていただければ、 1984年が オーウェル の『1984年』のようにならないことがお分かりになるでしょう。」
というメッセージが流れ、今までのパソコンとは全く違う新しいパソコンの登場をアピールしました。パソコンの概念を変えたMacintoshは全世界に大きな衝撃を与えました。アラン・ケイは、価格を抑えるためにメモリーの容量が少なかったMacintoshを見て、「これは、1リットルのガソリンタンクしかないホンダ車だ。しかし、議論に値する最初のパソコンだ」という評価をしました。
■ 万人が使えるパソコンの普及
アップルは、AppleIIの市場と競合しないように、Macintoshを企業のエグゼクティブに売り込もうとしていました。そのためには、投資対効果のシミュレーションなどができる表計算ソフトが必要でした。ジョブズは、親交のあったゲイツに、GUIを使った最初の表計算ソフトExcelの開発を依頼しました。 ゲイツはMacintoshをひと目見て、このパソコンが採用している視覚的なOSが、これからのパソコンの標準になると直感したと言われています。
MS-DOSの使いにくいインターフェースは時代遅れになっていました。マイクロソフトもウィンドウベースのOSの開発を進め、1985年にWindows1.0を発表、1992年に実用レベルのWindows3.1が登場しました。
マイクロソフトはアップルとの画面デザインに関する著作権裁判に勝利し、1995 年にMacintoshのデザインのエッセンスを取り入れたWindows95を大々的なプロモーションと共に公表しました。そして、WindowsNT、 Windows98、WindowsMe、Windows2000、WindowsXPとバージョンアップが繰り返され、現在のWindows10に到達するのです。
アラン・ケイが描いたDynaBookの1枚のスケッチが、半世紀の歳月をかけて、ようやく万人が使えるパソコンとして完成されました。
■ まとめ
オフィスのフロアーを占有するほどの巨大なENIACから進化したコンピューターはダウンサイジングを重ねて誰でも使える安価で小型で使いやすいパソコンになりました。この進化はまだ続きます。次回はパソコンが電話と合体して更に使いやすいデバイス「スマートフォン」に進化するお話をしたいと思います。