【前編】「道」で出会ったウクライナ人、アレクセイさんをタドる
読みもの|6.17 Fri

 5月末まで、森美術館で開催されていた『Chim↑Pom展:ハッピースプリング』。そこでは「育てる」目的で、会場内にアート作品としての「道」が出現し、その路上であらゆる催しが開催されていた。
同美術展に協賛したUPDATERは、「顔の見える関係」とはつまり「人と人を『道』で繋ぐこと」という理解のもと、作品に賛同。会期終了直前、前代未聞の「手打ち野球」を本気で行った。それは、本来「道」さえあれば、私たちは考え、試み、遊び、出会い、理解し合えた「昭和の『道』を取り戻す」、明るく脱力した取り組みだった。

嬉々!!CREATIVEさん所属のアーティストが投げる球を、Chim↑Pom・林さんが打つ。
アンパイヤも守備の方も、職業は多様

 そして今、この動乱の時こそ、メンバーを集める上で意識したのが「ダイバーシティ」。性別、年代、加えて国籍を超えた布陣こそが、希薄になるばかりな人間同士の相互理解のため、リアルな交流の場として「道」を活用したかったのだ。
今日お届けするのは、そんな手打ち野球のサプライズゲストだった、アレクセイさん独占インタビュー。
同氏はウクライナから、ポーランド経由で2週間前に日本に避難してきたばかりの、まさに時の人。同時に長年、チェルノブイリの原発視察の際、日本語ができる唯一のガイドとして彼の地を訪れた日本人たちと広範なネットワークを持つ稀有な存在で、生の情報を、ご本人の言葉で語っていただいた。

ーウクライナから避難してきた方に、日本語でインタビューできることは珍しいと思います。

アレクセイ 私はまだロシアがソ連だった頃、わざわざモスクワの本屋から取り寄せた本で、日本語を勉強しました。その後ウクライナの首都のキーウで、新しくつくられた外国語夜間学校の日本語教師として務めるようになりました。だんだん上手になって、学生を教えることで、自分もさらにもうちょっと上手になりました(笑)。

ーご出身もキーウなんですね?

アレクセイ そうです。私はキーウの人です。3月1日頃にキーウを出て、ポーランドに行きました。その後ドイツに行って、2ヶ月くらい滞在して、それから日本に来ました。
現在キーウには日本大使館がありますが、旧ソ連時代、ソ連政府は日本大使館はモスクワにしかなく、日本人がモスクワ内で人の旅行制限をしようとしたため、日本人がキーウにいることはほとんどありませんでした。ですから私には、日本語を話す経験がほとんどありませんでした。でもその本には発音の仕方についての表記もあって、それがわかりやすくて、その通り再生して勉強しました。

チェルノブイリ原発、ゾーン内を案内するアレクセイさん。
撮影は、何度も彼の地を撮影で訪れている写真家・中筋純さん

また、モスクワに行くと、中央の外国語図書館では、録音された日本語を聞くことができました。それを聞きながら、だんだん上手になれました。
私のまわりの友だちの意見ですが、日本語は非常に難しい言語です。一人で日本語を勉強することは信じがたいと言われますが、私にとっては非常に希望を感じられることでした、私は毎日楽しく日本語を勉強できて幸せでした。難しいとは感じませんでした。

ーなぜ日本にそんなに興味を持たれたんですか?

アレクセイ 小さい時から今まで、私の中にあった希望の泉が何だったのか、今でもわかりません。それは脳が考えたことではなく、心が反応したのです。

ー日本に来られたのは、何度目ですか?

日本に到着し、空港から直接、アレクセイさん受け入れを実現させた中筋純さんの
『ウクライナ・チェルノブイリ』写真展会場(木場:EARTH+GALLERY)へ。
ここでは各種イベントや、ファンドレイジングの取り組みもあった

アレクセイ 2回目です。前は8年前に、短い5日間くらいの旅行をしました。4月の桜の季節でとても美しく、東京と箱根、京都を訪問しました。

ーご家族はいらっしゃるんですか?

アレクセイ 私は離婚して、2人、前の妻がいますが、一人はウクライナの西の安全な地方に引っ越しました。2人目の妻はポーランドへ行きましたので、私は一人で日本に来ました。

ー今、キーウは大丈夫ですか?

アレクセイさんより、避難前のキーウ市内の様子

アレクセイ 時々ミサイルが飛んできて、爆発して、ある建物は破壊されました。私の住む建物は動物園の近くにあって、その地区では一軒も破壊されていませんでした。
すべてはまだ無事ですが、私はある時、地下鉄の駅にあるシェルターで一晩を過ごしました。そこはとても寒くて、気に入りませんでした。だからもうそのシェルターには行かず、家に残るようになりました。

アレクセイさんより、キーウでのシェルター生活の様子。まるで地下鉄の構内で雑魚寝のような?

でも毎晩、眠る前、私は部屋の窓を見つめました。私の部屋の窓は非常に大きく、私はその時に自分のイマジネーションで、もしミサイルが飛んできて私のアパートでなくとも、50メートルや100メートル離れたところで爆発すると、その窓が全部割れて、それらは私の体を突き刺します。その状況を想像してしまって、「さあ、ウクライナから出よう」という考えにいたりました。
それで、国外に避難したんです。
私はもう子どもではありませんが、それでも恐怖心はとても強いものでした。国外に出ることは、自分の命を助けることだと思いました。

ーキーウからはどのように、ここまで辿り着きましたか?

アレクセイ とても難しい道のりでした。

アレクセイさんより、とにかく大変だった避難の様子。
最後の写真はポーランドにて、ウクライナ支援イベントに参加

キーウからまず、ウクライナの西の安全な地区にある、リヴィウ市に移って、そこから電車で国境まで行きました。あとは歩いて国境を越えてポーランドのバスに乗って、大きな街から列車でポーランドを横断して、ドイツ国境まで行きました。
そこから国境を越えて、エルフルト市に友だちが住んでいるので、そこに2ヶ月ほど滞在しました。さらに再びポーランドに帰って、ワルシャワから直行便で成田に到着しました。12時間かかりました。

なんとか辿り着いたドイツの駅と、アレクセイさんを受け入れてくださったご友人家族

ーゼレンスキー大統領はどのようなリーダーですか。

アレクセイ ゼレンスキーさんは、以前は俳優、アーティストでした。今は、大統領の役割を果たすことが上手になりました。

ーそれは、戦争がはじまって変わったということですか?

アレクセイ 戦争がはじまって、非常に上手になりました。全世界の指導者と仲間になって、とても強い、パワフルな政策を行っていると思います。

ーゼレンスキーさんのことは、ウクライナの方々は皆さん応援していますか。

アレクセイ みんなではないです。ある人は、前の大統領をサポートしています。前の大統領と同意していた人は、ゼレンスキーさんに対しては反対です。
現在のウクライナ国民のほとんど誰でも、「プーチンさんは非常に悪い人だ」という考えがあります。プーチンさんのことが好きな人をよく見ると、ロシアのスパイか騙されている人々かもしれません。
ウクライナの現在の状況を理解するのは、外国から見て簡単なことではありません。

ーとはいえ、2014年の出来事が、今回の件の大きなきっかけだったという理解でいます。

なんとこの日、67歳の誕生日だったアレクセイさん。
Chim↑Pom岡田さんより、サプライズでプレゼントの贈呈も

アレクセイ 戦争は、当時ですと、本当の意味ではじまったことはなく、これはその前の、まだ予兆だったと思います。しかし、これはちょっと、説明することが難しいことです。
今確かなことは、ウクライナは安全ではないということです。もちろん安全とされる場所はありますが、ロシアが発射するミサイルはウクライナ全土を射程圏内にできるので、完全に安全な場所はほとんどありません。

アレクセイさんの臨場感と、当事者だからこその説得力溢れるお話を伝える上で、なるべく発せられたお言葉をそのまま掲載しています。
また、Yahoo!さんによる避難民支援の取り組みが6/19まで、開催中です。
→後編に続く

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記事を作った人たち

タドリスト
平井有太
エネルギーのポータルサイト「ENECT」編集長。1975年東京生、School of Visual Arts卒。96〜01年NY在住、2012〜15年福島市在住。家事と生活の現場から見えるSDGs実践家。あらゆる生命を軸に社会を促す「BIOCRACY(ビオクラシー)」提唱。著書に『虚人と巨人』(辰巳出版)など