【第2回】羽永太朗|亡き父が撮った”自立”の再生
読みもの|9.11 Mon

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金子國義「花咲く乙女たち」展 青木画廊/銀座 1967年9月

  「再生」、「前衛」、「自立」といった言葉を巡って、羽永光利氏の写真とエネルギーをとりまく状況は交錯する。
 羽永氏の写真が1964年の東京オリンピック前後、納得いかないことに闘う市民の存在と、それぞれが自らこその表現方法を模索していた時代を切り取り、ご子息の太朗氏が、その膨大な写真たちをまとめ、発表しているタイミングで2回目のオリンピックが視野に入ってきていることに、偶然以上の何かを感じる。
 例えば、広く知られる一言「殺すな」と共に、知っている人にはマスターピースである今回のトップ写真は、初回東京オリンピック聖火ランナーに刺激を受けて銀座でハプニングを起こした、伝説の前衛芸術家・糸井”ダダカン”寛二氏だ。1920年生まれの氏は今も健在で、オリンピック開催年に100歳となる。
 全2回の最終回、第一回目に引き続き、貴重な写真の数々と共にお楽しみください。
—羽永さんは3人兄弟で、ご家庭の生活はいかがだったんですか?
羽永 メチャクチャ苦しかったです。1980年代が小中の頃ですが、普通に電気や水を止められたりしていました。うちは井戸水をポンプで汲み上げていたので、電気が止まると水も出なくなりました。そうすると向かいの同級生に、「ちょっといい?」と聞いて、ホースで水をもらってたんです。小学校5、6年の頃、僕はそれが本当に嫌で。
 でも、フリーカメラマンにとって電話は生命線だったので、電話代だけはちゃんと払ってました(笑)。
 父はその後FOCUSの仕事をやるようになって、それで少しはお金がまわるようになるんですが、僕自身、高校大学は奨学金で行きました。
—そういう状況で、当時お父上の言っていることは、どう聞こえていたんですか?

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三里塚闘争 三里塚 1979年9月16日

羽永 まったく受け入れられなかったです。だから自分はサラリーマンになることが夢で、「毎月安定した給料が入る」という生活がしたかった。私より先に弟が社会人になり、初めてボーナスをもらってきた時に「すごい、ボーナスってこんなにもらえるんだ」って、家族みんなで驚きました。父も「ボーナスってどうやったらもらえるんだ?」って(笑)。だから、本当に反面教師でした。
 でも、2012年に自分の子どもが生まれて、父の気持ちを考えるようになったんです。子どもに何かを残したいと思った時、父の場合はそれがこの先どうなるかわからないネガだったとしたら、それを「世に出すこと」が自分にやれることなんじゃないかって。ただその時、父の撮ってきた方々については、ジャンルはわかっていましたが、人物だとか歴史について、まったくわからないところからのスタートでした。
—普通、赤瀬川原平さんに直接家に招かれるということは、ないことですね。
羽永 しかも今、ちょうど6、70年代の研究がすすんでいるじゃないですか。だから、そこにちょうどマッチしたのかもしれないと思います。自分としても新鮮で、父がやってきたことを初めて見ながら、写真は見たことあったとしても、被写体の皆さんに実際に会ったことはないわけです。

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ジャスパー・ジョーンズと磯崎新 1964年か

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磯崎新 1966年か 氏には、過去ENECTにも登場いただいた

 例えば磯崎新さんも、名前は知ってましたが、父がこんなに写真を撮ってるということは知らなかった。しかも、「なぜ建築家なのにこういうところにいるのかな?」、そして「父はなぜ、それを撮ってるのかな?」という疑問が浮かんだりもします。
 だからある意味、父の写真は今、時と共にいろいろな偶然が重なって、本当の意味で再び生まれているんですね。

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康芳夫 氏にも、磯崎氏との対談で過去ENECTに登場いただいた

—こういった時代の中で表現をされてきた方々に通じる姿勢の一つは、「自立」かと思います。
羽永 ちょうど先日、面白い話を聞きました。
 先週唐組の芝居を観に行ったんです。現在、座長代理で30年間劇団にいらっしゃる久保井研さんにお会いして、打ち上げにも参加させていただきました。父の写真集をお渡しして、「待ってました」と喜んでくださって。

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唐十郎「第88回芥川賞」受賞祝賀会 1983年

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状況劇場合宿 左から:森文子、唐十郎、大久保鷹、麿赤児と李仙麗、不破万作、中嶋夏 材木座海岸/鎌倉 1967年7月頃

 唐組とか状況劇場の芝居は、出てくる出演者、キャラクターがそれぞれピンでたっていて、それぞれがまったくバラバラです。同じ舞台上で、こっちとこっちの話が全然繋がっていなくて、ただ何となく全体がどこかの方向には向かっていて、はじまりと終わりはある。その話になって、だから唐さんの芝居は「わかるようで、わからない」。でも「見終わった後、何かしら惹かれるものがある」という話をさせてもらって。
 それは、唐さん曰く「音楽の言葉で『シンフォニー』というものがありますね」と。シンフォニーは、いろいろな楽器が一つの楽曲を具現化していくんですが、「その反対に『ポリフォニー』という言葉があるんです」と。そのポリフォニーというものは、それぞれがピンでバラバラの旋律やリズムで演奏するんですけど、音楽としては調和を保つ曲なんです。
—Perfumeの曲『ポリリズム』と、同じ「ポリ」ですね。
羽永 唐さんの芝居というのはそういう発想でやっていて、その座長代理さん曰く、「たぶん、昔ってそういう時代だったんじゃないですか?」と。それは、みんなバラバラなんだけれど、「根底はみんな一緒」という。

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横尾忠則、九條今日子 末広亭/新宿 1967年6月

 唐さんの舞台美術を中西(夏之)さんが手掛け、ポスターを赤瀬川さんや横尾忠則さんが描いたり、それぞれにピンの世界を活躍の場として持っていて、それらをまとめる「時代」という一つのベクトルがあり、そこでは皆がはまってるという(笑)。
 たぶん父の写真は、そういう写真だと思うんです。だからそれを、上から俯瞰で見るんじゃなくて、同じ高さでフラットに見ているので、わかりにくい。

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岡本太郎

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田中泯 plan-B/中野 1983年12月31日

—広大な文化の世界が、膨大な数の写真で、フラットに切り取られている。
羽永 普通カメラマンは、もうちょっとその世界に深く入りきらないで、むしろ少し上から俯瞰して撮るのに、父は被写体と同じ視座から「フィルム(写真)に残したい」という。だからそれぞれがバラバラでありつつ、父の中では「将来、これはものすごく大事な写真になる」という確信があって、「ここを撮り逃してはいけない」ということがベースにあったように感じます。だから、被写体との関係が遠かろうと近かろうと、お金になろうがならなかろうが、なんとかそこは工面しながら「撮り続けてやる」と。
—現場では確信しながら、無理解な社会、業界の中で闘いながら、かたちに残してきた。
羽永 そこに、今回すごく共感してくれたのが(松本)玄人さんであり、青山(秀樹)さんだったんです。

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羽永光利 一〇〇〇』刊行記念トークイベント 左から:松本玄人、椹木野衣、青山秀樹 代官山蔦屋書店1号館 2017年5月29日

 今までは「羽永光利」という名前は出ないで、むしろ「赤瀬川原平、糸井寛二といった『著名な作家を撮ったカメラマン』という捉えられ方」でした。でも実は逆で、「羽永光利さんがハブとなって、様々な意味で重要な作家たちがフィルムに残されていた」と。
—撮ったカメラマンもすごいですが、それを残してまとめようとする今を生きる方にも、すごい体力が必要とされる。
羽永 そうです。
 ある意味で、これはおこがましいかもしれませんが、父のコンテンツを使って自分がそれを集大成化する「共作」という意識でいます。
—お父上のエネルギーの源泉は、何だったと思いますか?

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京大紛争 京都大学 1969年2月か

羽永 それは反骨精神であり、その上で誰かとぶつかって摩擦が起きたとしても、その状況を受け入れるという胆力でしょうか。長いものに巻かれるタイプではなく、おのずと何かとぶつかるわけでです。でも、そこで摩擦が起きることが、何かしらエネルギーになったんじゃないでしょうか。

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篠原有司男

 別にその摩擦をわざとつくっていたわけじゃないですが、強い個人が社会に相反することをやれば、ぶつかるわけです。その時に、常に弱者の立場から写真を撮って、それを「多くの人に伝えるべきだ」と、そこは写真家としての矜持だったと思います。
 そこはすごくシンプルでした。「これは正しい」と思ったことは、そこに深い意味があるわけでもなく、ただ「伝えたい」ということがエネルギーだったんじゃないでしょうか。
—当時から、六ヶ所村を撮影されています。
羽永 アサヒグラフなどで公害問題は相当撮っていたので、その延長線上で原発を意識したこともあるかもしれないですね。
 高度成長期には、電力が必要です。でも、だからといって自然を壊すとか、目先のお金のために動いてしまうことが「本質なのか?」ということを、感じとっていたと思うんです。何かの媒体に発表していたはずですが、あのシリーズはカラーで撮っていて、それも珍しいことです。
—社会に向けて半ば裸で踊る舞踏と、六ヶ所やエネルギーの問題など、父上にとっては同じことだった。
羽永 今やりたいことは、父の写真がどういった媒体に掲載されていたかということを調べています。現代においては大宅文庫さえ、早めに行かないと危ない(笑)。だからこそ、父の写真の再生と共に発見があり、楽しいとも言えます。

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土方巽(劇団人間座「骨餓身峠死人葛」楽屋) アートシアター新宿文化 1970年10月

 もともとまったくこの世界のことを知らないところから始めて、最近、少しずつですが「羽永さんの名前を見ますよ」ということも言われます。普段はネットの動画広告の仕事をしているんですが、先日も突然「羽永光利さんと関係ありますか?」と仕事先で言われて、「父です」、「ええ!」って。某メーカーの宣伝部の方で、多摩美出身で、土方巽や大駱駝艦などの舞踏を追いかけてこられたとのことで、「僕はあなたよりもあなたのお父さんのことを前から知っています」と言われて(笑)。

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天井桟敷「30時間市街劇ノック」杉並区阿佐ヶ谷 1975年4月19日

 フェースブックでポツポツとしている投稿も、デザイナーとかコピーライターといったクリエイティブな方々に刺さり始めている感じは受けます。この前はDOMMUNE浅葉克己さんや森山大道さんにも話していただきました。偶然にも浅葉さんご出身のライト・パブリシティの社長さんとも仕事絡みでお会いしましたが、浅葉さんのお話から6、70年代の父の写真で話が盛り上がりました。

 そういったところから、さらに父の写真の再生を仕掛けることができたらと思います。
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羽永太朗

1970年生まれ、カメラマン羽永光利の長男として誕生。

幼年期は、父親のカメラ助手として前衛芸術や舞踏の撮影を手伝うものの、反面教師にてカメラの世界に進まず、大学卒業後は広告業界へ進む。
広告代理店や自動車業界のマーケティング業務を経て、現在は動画広告のベンチャー企業に勤務。

2013年「羽永光利プロジェクト委員会」を立ち上げ、父親が残した約10万コマに及ぶネガをデジタルアーカイブ化と写真調査を開始。
2014年3月「アートフェア東京」の企画展示がきかっけとなり、国内外問わず60-70年代の社会風俗、舞踏、前衛芸術の写真展示中心に数多くの展示会に協力出展。

(取材:平井有太)
2017.06.05 mon.
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