【第1回】羽永太朗|亡き父が撮った”自立”の再生
「千円札裁判」第2回公判 左から:杉本昌純、瀧口修造、赤瀬川原平、中原佑介、大島辰雄 1967年5月
氏が何を撮ったカメラマンなのか聞いて「ダダカン」、「ゼロ次元」、「ハイレッド・センター」、「状況劇場」と答えられても、馴染みない響きに興味を持てないかもしれない。
しかし氏が激動の6、70年代を中心にフィルムに収めてきたカメラマンだという説明、つまり真の「自立」を模索し、多くの人々が表現を模索していた時代の記録者だとすれば、それは今、私たちが自由化されたエネルギーと共に模索している社会の状況にピタリと当てはまる。
1000ページにわたる写真集『羽永光利一〇〇〇』(一〇〇〇 BUNKO)も刊行された。2014年の東京アートフェア出展を皮切りに、再評価高まる背景に何があるのか。
氏の写真を管理するご子息、羽永太朗氏に話を聞いた。
最初父は写真家よりも画家になりたくて、でも家族の反対や体の不自由さもあって写真家になりました。だから表現者の方々へのアプローチを、自身も一人の作家としてしていて、関係のつくり方がすごく近かった感じがします。
平たく言うと、父がカメラマンになった原点が、瀧口さんとの出会いにあるんじゃないかということです。今父の写真は1963、4年くらい、ハイレッドセンターに代表される、東京オリンピック前後のものがフォーカスされています。そこから70年代半ば頃まではすごく濃いんですが、では父はどうやって、美術家や前衛作家の方々と接点を持つようになったのか。
その鍵が、そこにあるんじゃないかと考えています。
「写真100年 日本人による写真表現の歴史」展(東松照明) 池袋百貨店 1968年6月
新宿ゴールデン街
ゼロ次元《全裸防毒面歩行儀式》 新宿 1967年12月9日
人間と大地のまつり 代々木公園 1971年8月
ラフォーレ原宿 1982年
21歳の時、足に人工のお皿を入れる選択肢はあったらしいんですが、当時の医学だと「あと7、8年かかる」とのことで、とても「その間ずっと病院にはいられない」と。それで、代わりにチタンを入れれば足が曲がらなくはなるけど、街中に出れますと。
ソニービル/銀座 1966年か
だからその自分と、違う世界ではあっても、美術とかパフォーマンスで”正しい”ことをやってるのに”社会から認められない”ものに、すごい共感を感じたんだと思います。
渋谷交差点と109
電気も、長野でつくられているものを東京で使うことも確かに「再生」かもしれませんが、もっとエコサイクルみたいなものがより新鮮というか、ある意味で再利用なんだけど、そういうことがきっと、カルチャーが起こる時の現象なんだと思います。
パルコの壁画 渋谷 1973年3月
ハイレッド・センター《ドロッピング・イベント》 池坊会館屋上 1964年10月10日
さらにそこで、赤瀬川さんとも15年ぶりくらいに再会したんです。ちょうど同じ時にいらっしゃってて、「ちょっと体調を崩してるんだけど」とのことでしたが「あなたのお父さんには相当お世話になって、家にも写真があるから、一度見に来なよ」と、ニラハウスの住所と電話番号をもらったんです。でも、その後体調を本格的に崩されちゃって、結局行けなかったんですが。
結果的にご自宅に行けたのは、赤瀬川さんがお亡くなりになった後でした。そのタイミングで千葉市美術館で赤瀬川原平展があり、キュレーターの方に、「展示にあたって写真は赤瀬川さんからお借りしたんだけど、そのうちのかなりのものが羽永さんの写真でした」と。それらは奥様から借りてるからもちろん戻すんだけど、「一度見に行かれたらいいんじゃないですか?」と言われて、その時に赤瀬川さんに言われた言葉を思い出したんです。
赤瀬川原平 赤瀬川宅 1967年か
赤瀬川原平 赤瀬川宅 1967年か
そういった流れですので、これは「アートの再生」の、一つ明確な実例と言えるかもしれませんね。
例えば私の高校進学の時に、「絶対ここに行け」というのが農業高校だったんです。「なんで?」となったんですが、「これからは農業にコンピューターが絡んでくる時代になる」ということを言われました。自分の写真についても、「オレが死んで2、30年したら、これらの写真が必要になる」と言っていました。死んだのは99年ですから、まだ20年は経っていません。でも、撮影自体は4、50年前の話になります。
草間彌生展 フジテレビギャラリー 1982年3月か
秋山祐徳太子(東京都知事選政見放送) 1979年
羽永光利
1933年、東京は大塚生まれ、文化学院美術科卒。61年に第一画廊(新宿)で初個展を開催。以降、フリーのカメラマンとして『週刊平凡』、『週刊女性』に若者をテーマに(〜65年)、『美術手帖』などに若手アーティストを(〜68年)、『婦人公論』、『アサヒグラフ』に現代美術、舞踏、小劇場、風俗、社会問題について(〜70年)写真を掲載。71年からは『週刊朝日』でフォト紀行「ナウナウ」を担当(〜75年)。それ以外にも『芸術新潮』、『芸術生活』、『FOCUS』ほか掲載誌多数。80年代は国内のみならず「アヴィニヨン演劇祭」写真部門、ポンピドゥー・センター、ユネスコ・パリ本部ほかで展示、個展開催。99年の逝去後、2014年より長男・太朗氏(写真左は5歳時の太朗氏)による写真展出展、写真集出版を軸に、国内外で再評価の波が高まっている。
次回へ続く