島根県・隠岐諸島、島前・海士町のリバイバルストーリーをタドる〈第1回〉
読みもの|3.18 Fri

“ないものはない”  
価値観のシフトで
よみがえった離島の町

目次

千年を超える歴史の島、隠岐諸島。

島根半島の沖合およそ60~80km、大小4つの島々からなる隠岐諸島。息をのむ海岸線の絶景、島固有の自然環境、そして千年を超える歴史と文化は、世界的にも貴重であるとしてユネスコ世界ジオパークにも認定されている。

一方、隠岐諸島は流配の島として歴史にもしばしば登場する。鎌倉時代、承久の乱で隠岐に流配となった後鳥羽上皇が現在の島前・海士町で生涯を終え、112年後の元弘の乱では後醍醐天皇が島後・隠岐の島町に流されている。

これからお伝えするのは隠岐諸島のひとつ島前・中ノ島の海士町という小さな町が、町存続の危機から再生への道を切り開いたリバイバルストーリーである。

海士町には数多くの伝統行事が受け継がれている。
海士町で生涯を終えた後鳥羽上皇を祀る隠岐神社。

“ないものはない” それは島の人々の勇気と覚悟

いまから20年ほど前、海士町は深刻な過疎化と財政難によって、町の存続が危ぶまれるほどの状況に陥っていた。だが、島の人々は困難な地域再生プロジェクトに挑戦し、みごとに未来への道を切り拓いた。そのとき人々の心をひとつにしていたのが「島にないものを追わず、島の良さを活かして自立する」という強い意志だった。

2011年、そんな島の人々の決意は、あるクリエーターによって「ないものはない」という海士町のスローガンになった。受け取り方によってさまざまに解釈できるが、おそらくこんな意味だ。

都会にあるものは、ここにない。ないものを望んでも、前に進めない。

いまあるものを見なおしてみよう。幸福のかたちを見つめなおしてみよう。

ほんとうに大切なものは、ここにある。

このスローガンは価値観をシフトするという宣言だ。海士町の成功はいまや全国の過疎地再生のお手本となっているが、プロジェクトの成否を決めるのは、これまでのやり方や考え方を変える勇気と覚悟なのだ。

海士町公式webサイト リンク

ないものはない|島根県海士町 (town.ama.shimane.jp)

財政破綻の危機に陥った海士町

豊かな海と自然に恵まれ、かつては半農半漁で成り立ってきた海士町だが、昭和の中頃に制定された離島振興法以来、公共事業が主な収入源になっていた。しかしバブル崩壊後の2000年代になると、頼りにしていた公共事業や地方交付金が大幅に減少し破綻の危機に直面した。公共事業で生かされてきたことの弊害が一気に表面化したのだ。

自治体の破綻とはどういうことだろうか。簡単に言えば自治権を失って国の管理下に置かれる、いわゆる財政再建団体になるということだ。国が面倒を見てくれるのならそれでも良いとも思えるが、世の中そう甘くはない。

自治体が財政再建団体になることのデメリットを表すときに、よくこんな例えが使われる。「鉛筆1本を買うにも国の許可がいる」。それほど裁量がなくなってしまうという意味だ。

財政再建団体になると債務などの清算が優先される。使える予算が乏しくなれば行政サービスの質も低下し、町からさらに人が出ていくことになる。一方、自主再建の道を選んだ場合は自分たちのやり方で再生を図れるが、国からの支援措置の多くが受けられなくなる。

厳しい自立への道を選んだ島の人々

その頃、過疎化というもうひとつの危機も迫っていた。ピーク時に約7,000人だった海士町の人口は、2000年代に入ると2,300人あたりにまで減っていた。しかも20~30代の若者が極端に少なく高齢者の比率が高い状態だ。このまま減少に歯止めがかからなければ、破綻どころか町そのものがなくなってしまう可能性さえある。

海士町をどうやって守り、再生させるか。役場も住民も島の再生について徹底的に討議を重ねた。折しも「平成の大合併」の嵐が吹くなか、他の島との合併も議論されたが地続きではない島同士の合併はメリットが少なく解決につながらない。

過疎化と高齢化で活気を失った海士町。

海士町は腹をくくった。

当時の山内町長の強力なリーダーシップのもと、厳しい自立の道を選び、自らのちからで島の未来を築いていくことを決意した。町長や役場の職員は進んで給与を削った。故郷を守るため、島の人々はバス料金やコミュニティへの補助金を断り、貯金の一部を町に寄付した。

破綻の危機に際して大きな役割を果たした海士町役場。

めざしたのは移住促進+新ビジネス創出

島の再生のためには、まず人口減に歯止めをかけ、高齢化した人口構成を改善していかなければならない。これを短期間で改善する策はただひとつ、島外からの移住者を募ることだ。だが、人を呼び込むためには仕事がなければならない。海士町は移住の促進とともに、島民も移住者も魅力を感じられる新たなビジネスづくりに取りかかった。

まず’90年代末から毎年数名を町の臨時職員として受け入れる商品開発研修生制度を開始した。狙いは島外の人たちの視点で、島の資源を活かした商品企画や製造に関わる仕事をしてもらおうというものだが、この研修制度はすぐさま成果を上げることになった。

若者をはじめ子供をもつ家族も島にやってきた。

島外の人の視点で生まれた「さざえカレー」

昔から島の人たちは豊富に採れるサザエをカレーライスの具にしていた。いわばシーフードカレーだ。魚介が食事の中心だった島では当たり前の習慣だったが、研修生は隠岐らしさをアピールできるアイデア商品になると考え、「島じゃ常識!さざえカレー」というネーミングで売り出し、5万個を販売するという成果をあげたのだ。この成功は新ビジネスに懐疑的だった島の人々にも「やればできる」という自信を与え、その後の新ビジネスづくりを大いに後押しすることになった。

島外の人の視点で商品化に成功した「さざえカレー」。

後に海士町の海産物をブランド化し、全国に広めるきっかけとなった人材もそれまで水産業にまったく縁のなかったⅠターン移住者だった。島の人が気づかない魅力を違う視点から見いだしビジネスにする。これらの成功が漁業に携わる人たちに安定収入をもたらし、新たな雇用を創出することにつながっていった。移住の促進は過疎化に歯止めをかける以上の効果をもたらしたのだ。

その後、さまざまな移住促進策により750人以上の移住者が島にやってきた。もちろんすべての移住者が定住するわけではないが、2020年の時点で島の人口の10%近くをⅠターン・Uターン移住者が占めるほどになっていく。

 第2回へ続く

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記事を作った人たち

タドリスト
淀哲治
鎌倉在住。田舎暮らしを夢見る、料理好き、旅好きのコピーライター。広告代理店等でクルマや時計の広告制作に携わり、現在はフリーランス。広告屋なのに広告のない街並みやNHK-BSが大好きな仕事熱心じゃないオジサン。