【第1回】佐藤三郎さんと「ONE STEPフェスティバル」
その発起人であり、実行委員長を務められた佐藤三郎氏が6月、急逝された。本稿は昨年12月、当時まったく元気な佐藤氏が、ワンステップを実現させたバイタリティをそのままに「今」について語ってくださった、たぶん最後のインタビューである。
「日本版ウッドストック」と呼ばれ、オノ・ヨーコさんをメインアクトに、内田裕也氏、石坂敬一氏らのサポートのもと開催された、今や日本に当り前に根付いた「フェス」のパイオニア。その源流には、ミニコミ誌「ONE STEP」があり、郡山アース・デーがあり、「街に緑を、若者に広場を、そして大きな夢を」というテーマがあった。
時代を先駆けした、音楽と環境問題のイベントが「ONE STEP」。当時すでにそこには「持続可能=サステナブル」な社会についての問いかけがあったのだ。
御子息から許可をいただき、2回に分けて、佐藤三郎氏のインタビューをお届けする。
この間自分も行ってきたんだけど、学芸員さん曰く、結構毎日かじりつきで来る人がいると。
ただ、今も町内会長をやっています。地域には400世帯、1年交替のところでもう5年目になります。
今、社会はものすごい勢いで核家族になっていて、それは日本をダメにする大問題ではないかと。そこでこの町内そのものを「大家族の仲間同士」ということにすれば、何かあった時にお互いに助け合えるんじゃないか。そのことをずっと提唱してきたんだけれど、なかなか動きも遅い。
オレの行動はたぶん、そこにある。
何を言われたって、結論を見ずしてやめるなんていうのはとんでもない話で、思いきってやるだけやってみて、1年に何人かでもファンができたら、サークルが広がっていく。その広がりが大きくなると、町内会から市になっていく。ここは郡山市だけど、そうしてそれが県、日本と広がっていけばいい。
当然「ONE STEP」だって最初に「何をやるんだって」、やいのやいの言われました。だけどオレはNYに行って、帰りハワイをまわって映画を観た。それがたまたま「ウッドストック」だったんです。最初観に行った時は疲れて居眠りをしちゃって、翌日もう一回、何か重要なことがあの映画にあるような気がして、午前中から観に行ったの。
最初に「ONE STEPフェスティバル」をやるのには、1億2千万円くらいかかったの。半分は赤字で、ひっちゃかめっちゃか。
個人的には、こんなことで今こうやって取材を受けても、「本当に笑ってください」と、佐藤三郎としては、なんとなくむず痒い気がするんです。やったことは間違いないけど、それが参考になるかと言ったら、「やらない方がいいこともいっぱいあったな」って。
彼女が「これでいいのかしら」と言っているというのを、オレは当時東芝EMIによく行っていたので、聞いていたの。だから、「イベントをやるのはこの人とに決めた!」と思ったのは、それだけの理由(笑)。
1971年にハワイで映画を観て、帰ってきて72年に「ミニコミをやりたい」となって、それには若者がいないといけない。歌をやるもの、絵を描くもの、本を書くもの、色々若い人たちに声掛けをしたら、いつの間にか次から次へと来るようになって。
special thanks:郡山のBooks & Cafe「Go Go Round This World!」
それで取材をしてる中で、渋谷で「すごいのを観てきました」と聞いたのがが「内田裕也とフラワー・トラベリン・バンド」だった。
それで「あの人たちを呼べないんでしょうか」という話が、それは最初ただのヒントだったんだけど、「面白いね」って、乗っちゃったんだよね。そこから今に、ずっと続いていくわけ。
そんなことは初めてのことで、「(親指と人指し指で丸をつくりながら)佐藤さん、コレいるんだけど大丈夫なの?」って(笑)。
右が、長髪時代の佐藤さん。左は、東芝EMI時代にビートルズを手掛け、その後ワーナーミュージック・ジャパン会長までなられる、石坂敬一氏